月の人魚 作:成也

 

(1)

 

 皓々たる月の光があたり一面を照らし出す中、錨を下ろしたままの一隻の客船が波間に浮かんでいた。
 船内の一室にはほのかな灯りがともっており、その部屋の小窓からじっと夜の海を見つめる一人の人物。
 机の上に置かれたろうそくの炎が、かすかに揺れ動く。
 やがて聞こえてくる足音。それはこちらに駆けて来る足音だった。
 遠くかすかに響いてくるだけのものが、やがて部屋の中にもはっきりとわかる程に感じ取れる。
 そして足音は、部屋の扉の前でピタリと止まる。
 余程急いで走って来たのであろうか。扉の向方側で乱れる呼吸を整えるかのように、しばらくの間があった。
 やがて、扉は開かれた。
 振り向いた甲児は、驚きの表情を隠せずにいた。
 扉が開かれた瞬間に吹き込んできた外の風の勢いで、ろうそくの炎が激しく揺れ動く。それはまるで、二人の心を象徴するかの如く…。
 驚きの甲児とは対照的に扉を開けた一人の女性は、一目散に甲児めがけてその胸に飛び込んで来る。
 その体全体は、“喜び”に満ち溢れているものであった。
「来たわ、私……やっと……来たの」
 さやかは嬉しそうに甲児を見上げる。
「絶対信じていたから。また、会えるって……」
 さやかの歓喜の声を聞きながら、甲児の手もさやかのその細い肩を力強く抱き締めようとする…が、そのまま甲児の手はためらいがちに止まってしまう。
「甲児君? 私よ、さやかよ。わからないの? どうしたの?」
 不可解な甲児の様子に、不安気なさやか。
「私、今の貴方が何を思っているのかが全然わからなくなっている。どうして? 私にはもう貴方の言葉が…心が…聞こえないの?」
 甲児は想いを振り切るようにさやかから離れ、背を向ける。
「私、貴方に会いたくてここまで来たの。ただ、貴方に会えれば…それだけで」
 さやかの声が上擦って、涙声に変わってゆく。
 だが、甲児は振り向こうとはしない。
「甲児君…」
 さやかがポツリと言った時、甲児が振り向きざまに、一枚の紙をさやかの目の前に突き出す。
 それを目にした瞬間、とめどもなくさやかの瞳から涙があふれ出す。
「あっ、ご、ごめんなさい。私、甲児君が…貴方が…そこまで迷惑しているとは思わなくて。本当に…ごめんな…さい」
 さやかは唇を噛みしめると、外へと走り出す。
 再び吹き込んだ風によって、ろうそくの炎が消える。
 甲児はさやかに見せた紙を破り捨てる。
 闇の中、一人残った甲児の肩も寂しく震えていた。




 どのくらい走ったのだろうか?
 足がもつれて、砂浜に倒れこむさやか。
 倒れこんだまま、さやかは砂をかきむしるように手の中に。
 その砂も、やがて虚しく手の外へと流れ落ちていく。
 さやかの耳に打ち寄せる波の音が静かに響いてくる。
 海、それはさやかの故郷。
 昨日まで優しい波の音に包まれていたはずなのに、今はその波がたとえようもなく残酷で、無常のものに思える。
 海の仲間達、そして懐かしい父の声も今はもう何もさやかには聞こえてこない。
「エヘっ、やはりお父様の言う通りだったわ。人間の世界に来ても、現実には思い描いていた通りにはいかないのね」
 さやかの脳裏に焼きついた先程の甲児の手記。

−−−なぜ、ここへ来たんだ。俺は君を待っているなんて言った覚えはない。これから俺は旅に出ると伝えたはずだ−−−

「見えない矢が何本も突き刺さって、なんだか胸が痛いな。やはり、違うのかなぁ〜、人間と…人魚…」
 さやかは、自分の足を見つめる。
 生まれたての足がこんなにも切なくて、重くて、悲しいものだとは。
 さやかは空に浮かんだ月を見ながら、今までの自分を思い返していた。

 

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