その距離

やまやま  


 

黒い夜を黄色やオレンジのヘッドライトの流線が駆け抜けていく。春と呼ぶにはまだ早い凍てつく空気の中をエンジン音と排気ガスの音が突き抜けていく。冷たい風に流れた髪を手で押さえる。風の行方に顔を上げた視線の先には、派手な原色のネオンが照らし出す舗道に黒のダウンの後姿。歩きつづける背中。二人を隔てる距離は街路樹と街路樹の間のそのままの距離。縮まることもなければ広がることもない。

歩く速度はずっと同じだから、ずっと数歩離れたままの他人の距離のまま。それでも、ところどころの外灯で、その距離を確かめるかのように足が止まる。立ち消えたヒールの甲高い足音に気が付いて、数歩の歩みの後にその動きを止める背中。顔だけこちらに向けて不機嫌そうな視線で先を促される。いかにも面倒くさそうなその素振りに漏れ出るため息が白く染まる。あの子にはあんなに機嫌よさそうに微笑んでいたくせに。不機嫌なのはこちらのほうだというのに。


「月9は見ているよーー♪」
「俳優がそろっているもんね。」
「火曜ドラマも好きなんだ。なんか、ついホロリって感じでさ。」
気の合う仲間と、大好きなドラマの話に身を乗り出す。えっと、他に見ているドラマで面白いのはっと・・・、次々にあふれ出てくる言葉。皆で好き勝手に御託を並べる。オレンジの薄明かりのライトのもと、音響のBGMに負けじと声を高くする。幾種類もの香水の匂いが鼻を擽る。ライトの光を反射してきらめく色とりどりの長い爪が目の前を行き来する。麝香と喧騒の渦の真っ只中。

その時、一層甲高く響いた嬌声。
「キャー、それ本当ですか!?」
「イヤだーー!」
今更、確認するまでも無いその騒ぎの発生地。テーブルの一番奥から、先ほどから定期的に繰り返されて発生するその歓声。何度も聞こえぬ振りで目の前の会話に興じてきた。今回も気付かぬ素振りでやり過ごす。
「うん、でも、ね、一番気に入っているのは木曜のスポ根ものなの。」
「あ、分かる分かる!実は私も♪」
「だよねー♪」
今しがたの歓声に負けないくらいの声を張り上げてみる。
こうやってけたたましく騒いでみせるのはこれで何度目だろう・・・。楽しいはずなのに・・・なのに、誰にも気付かれないように、先ほどから、つま先にひっかけたきりで、ぶらぶらと規則正しくリズムを刻んでいたヒールが床の上にころがり落ちていく。テーブルの下のその小さな衝突音は、周りのざわめきに紛れて、誰の耳にも届くことは無く消えていく。
テーブルの一番奥、響き渡る嬌声のまさに真ん中に陣取っているアイツに気付かれることもなく。

「じゃ、今日はこれでとりあえず御終いって、ことで。」
「はーい、お疲れ様でしたー。」
「またねー。」
「ねー、この後、どうする?」
この季節につきものの歓送迎会も終焉を迎えた。店内から出てきたばかりでごった返す人ごみからこっそりと外れる。冷たい冬の夜気がほてった頬に心地よい。思いっきり冷えた空気を吸い込んでみる。
「この後、どうします?」
いつの間にそばにいたのか、顔なじみの一つ下の後輩が大きな目を更に大きくして、顔を覗き込んでいた。
「ううーん、そうだなー・・」
なんて迷う振りしつつ、足先は既に帰る方向へと向かっている。
「皆でカラオケに行こうって言っているんですけど?」
無邪気に笑いかけてくるその顔はどう判断しても可愛い。その愛らしい顔が、肩先の自分の髪の匂いに気づいたのか、ふと顰められた。
「あー、煙草の匂いがついちゃっている。やだなー。」
髪や上着の袖の匂いを確かめるその仕草はクンクンと鼻を鳴らして甘える子犬のようで、ほんの少し困惑したようなその表情が、彼女のまとっているピンクのコートによく似合う。そして彼女のそんな何気ない態度をなぜか正視できないでいる自分。
「一緒に行きません?」
今はそんなにニッコリと笑いかけないで欲しい。
「うーん、やっぱり今日はこれで帰るね。ごめんね。」
「えー、そんなー。」
尚も一緒に行こうと誘ってくれる。そう、本当はそんな彼女が大好きなのだ。昼食もしょっちゅう一緒にとる仲だし、彼女の恋の相談にだって乗っている。今も、そのお目当ての彼氏と一緒に行けるチャンスだよ、と密かにけしかけてみたりして。そのくせ自分は、『ごめんね、でも、そろそろ帰らないとお父様が五月蝿いから・・・』なんて逃げ出す算段をしている。いや、遅くなるとお父様が心配するのは本当なんだけど・・・。とにかく何だかんだと言い訳して、彼女や他の連中を必死で誤魔化す。何とか切り抜けれたと踏んだその時に、ご親切にも名乗り出てくれる輩がいたりして。
「じゃ、僕が送っていきますよ。」
新たなる問題発生・・・。今度は、このご親切な心遣いをいかにご辞退申し上げようかと、思案にくれていたところ、
「あ、俺が一緒に帰るからいいよ。」
背後から聞きなれた声がした。


足元に転がる小石を意味もなく蹴飛ばしてみる。
「飲みたかったんなら、もっと飲んでくればよかったじゃない。お父様に気をつかうことなんてないのに。」
口からついて出たのは決して可愛くない言葉。むしろ腹立たしい部類のものかもしれなくて・・。
「別におまえさんを送っていくためにわざわざ帰るんじゃねーよ。帰りたいから帰るだけだ。最近、仕事遅かったから、飲みに行くよりもさっさと寝たいんだよ。ゆっくり風呂も入りたいしな。おまえさんを送るっていうのは、逃げ出すための只の口実!」
でも、敵はそれ以上に腹立たしい態度。目を合わせもしないで投げつけられたその言葉に、返した音色は一層堅いものだった。
「あ、そうですか。じゃ、ご自由に。」
転がっていった石の行方をずっと見送る。この季節、やはり春とは名ばかりのよう・・。どうしようもなく一目ぼれして、思い切って購入した白のコート越しに凍てついた外気が深々と伝わってくる。決して機能的ではないこのコート・・。僅か一分でも貴重なあわただしい朝、それでもクローゼットの前で立ちどまり迷うこと数分の後、つい、と、このコートに手を伸ばしてしまったのは、試着してみたときにコイツが珍しく目を細めて見てくれていたようだったから。それだけの理由。・・・それなのに・・・


「早くしろよ。」
ぶっきらぼうに言い放って、再び歩き出すその背中。二人の間を包む重い空気はそのままに重い足取りへと姿を変える。
「先に行けばいいでしょう。」
ぶすっと答えた態度は、ますます可愛くはないものだろう。今度は憎たらしいとさえも呼べるものかも・・。一瞬ピンクのコートを着て無邪気に笑っていた彼女の姿が脳裏を掠める。その姿は、ざわめきの中、コイツの横で笑っていたあの時のあの子の笑顔に移り変わる。

別に構いやしない。
彼女が誰の隣で楽しそうに笑っていたかなんて。
別に気になんてしていないのだから。
彼女が誰の隣に座っていたかなんて。


・・・気になっていたのは、彼女の隣で笑っていた誰かのほう・・・。

派手な色彩のネオンと街路灯が二人の間の距離を一層はっきりと照らし出す。歩き出した背中から視線を下に落とせば、闇の中、銀色の細い月明かりを受けて煌くアスファルトが鮮やかに目に映る。その輝く漆黒の色が二人の距離を一層隔てていくようで。煌きから眼が離せない。下を向いたっきり。指先からの細い冷気は身体中に染み渡り・・・。こんなことならいつものダウンを着てくればよかった・・。そんなくだらない思いつきに何故か視界がぼやけてくる。暗闇が滲んで見えたその時、見慣れた靴が視界に飛び込んできた。

立ち止まったきりの姿に業を煮やしたのだろうか。いつのまに引き返してきたのだろう。突然、縮まった距離に慌てて顔を上げると、思いっきり不機嫌そうな顔をして目の前に立っていた。
「臭い!」
「は!?」
「さっきから匂うんだよ!バーカ!!」
突然、頭突きをくらわされた。髪の上にコツンと乗せられたおでこ。目線が彼の肩に止まる。トクン・・と少し緊張気味になっている自分の心臓の鼓動を、自分で聞いた。
「そんなに匂うかな―――??」
突然、思い当たったこいつの不機嫌の理由。
ついと綻ぶ顔を見られたくなくて、わざと髪の毛を鼻の先に持ってきてみる。
「それにしても馬鹿とは何よ、馬鹿とは。失礼ね。」
鳴り出す胸の音を誤魔化すように、わざと口先を尖らせて反論してみせる。
「うっせー。馬鹿は馬鹿なんだから、仕方ねーだろう!ほら、早く帰るぞ。」
そう言うと、ぐいと手を掴み歩き始めた。

そう、時々、こんなことが起こるのだ。打ち合わせや食事を一緒にした際に、相手の煙草の匂いがうつってしまうことが。そして、その匂いに気付いた甲児君の機嫌が微妙に下降線をたどるらしいことが・・・。

今は肩が触れ合うくらいのこの距離。
掴まれた手はずっとそのままで。
離すタイミングを逃してしまったのか、それとも、繋いでくれているつもりなのだろうか。
どちらとも分からないけれども。
お気に入りのコートを着てきてよかったのは確かみたいで。
指先から伝わる手のぬくもり。
これを友達以上の距離と自惚れてもいいのかな。

ずっと胸に燻っていた言葉を一つ、気付かれないようにそっと早春の空に返す。
・・・女の子に愛想を振り撒いていたのは甲児君のほうのくせに・・・。


まだ肌寒い弥生の宵。
早春のやみに匂い立つ梅の香りにようやく気が付いた。

 

 

 

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