なべてこの世は事もなし

mio

 

「ただいまー」
 午後7時、比較的マトモな時間に自宅に帰ってきた甲児は、例によってそこにさやか以外の人間がいることに気がついた。
「甲児くん、おかえり」
「アニキ、おかえりー♪」
「お邪魔してまーす」
 リビングではさやかとジュンがのんびりお茶を飲んでいて、キッチンからはエプロン姿のシローが顔を出している。
 甲児とさやかが結婚して光子力研究所近くのマンションで生活を始めてからそろそろ一年になろうとしている。しかしこの二人、わざわざ研究所を出たというのに、なかなか二人きりになれないでいる。鉄道の駅に近い上、自宅である光子力研究所よりも大学に近いためか、シローはしょっちゅうこのマンションに泊まりに来るし、ボスヌケムチャの三人組は言うに及ばず、鉄也とジュンの夫婦やら、果ては娘が出ていって寂しいらしい弓教授やのっそりせわし両博士までが度々顔を出すのである。その状態を、甲児とさやかの二人ともがちょっと困ったなーと思いつつも許容しているため、ますますこのマンションは友人たちの溜まり場もしくは簡易宿泊所的な様相を呈してきていた。
 今日もジュンがこうやって来ているし、シローも泊まっていくつもりらしく、宿泊代の代わりに料理を作っているようだ。
「もうちょっと待っててねー。今日の晩飯はアニキの好きなさんまの塩焼きと茶碗蒸しだから」
 そう言ってキッチンに引っ込んでいくシローの料理の腕は、実はさやかよりも上だったりするので、甲児的には今日の晩飯は期待度大である。もちろん、さやかの手前そんな気持ちは顔には出さないが…。
「ジュン、今日は仕事休み?」
「ええ。さやかも休みだって聞いたから一緒に買い物行って、さっき帰ってきたとこ」
 見れば部屋の隅には某デパートの紙袋が2つほど置かれている。これが今日の収穫らしい。
「今日は鉄也さん、どーしたんだ?」
 隣の部屋で着替えながら話しつづける甲児に返ってきた答えは、少々歯切れの悪いものだった。
「………鉄也は……知らないわ」
「………え?」
 頭からトレーナーを被りながらリビングに戻ってきた甲児は、珍しくむっとした顔のジュンを見て驚いた。
「知らないって…」
「あ、甲児くん、鉄也さんは講習会の講師するんだとかで、東京へ泊まりの出張なんだって」
 慌ててさやかが隣からフォローする。
 鉄也は現在、体の不自由な人のために、義手や義足、車椅子など生活を補助する器具を開発する仕事をしている。戦士としての訓練の傍らロボット工学の基礎を学んでいた鉄也は、戦いの終わったこの平和な世の中で、兜剣造博士の体を作り上げていたサイボーグ技術をそういった方面に生かそうと考えたのだ。妻であるジュンも部署こそ違え同様の仕事をしており、この二人、常日頃の夫婦仲は上々のはずなのである。
 なのに今のジュンの態度は何なんだろう?
「……ジュン、どうしたんだ?」
「あの…ね、甲児くん……?」
 訝しげな甲児に、再びさやかがフォローをしようとしたとき。
「鉄也アニキ、ここんとこ何か様子が変なんだってさ。浮気でもしてんじゃないのー?」
「シローちゃんっっ!!」
 キッチンからおたまを手にしたシローが冗談めかして口を出す。慌ててシローに向かって手元のクッションを投げつけたさやかだったが、時既に遅かった。ジュンの顔色が変わっている。
「……痛いなぁ、さやかさん」
「痛いじゃないでしょ、シローちゃんっっ! 言っていいことと悪いことが……」
「なんだよぉ、冗談に決まってるだろ? 鉄也アニキに限ってそんなこと……」
 シローは慌てて言い訳をするが、さやかに鬼のような目で睨まれて徐々に小さくなっていく。
「いいのよ、さやか」
 ジュンは口許に笑みを浮かべてそう答えるが、その目は全然笑っていない。
「鉄也に限って浮気なんてするとは思わないけど、毎日毎日帰りは遅いわ、仕事中もわけのわからない外出が増えるわ、携帯の電源はしょっちゅう切れてるわ、そのくせ電話がかかってきたときには電話の向こうから女の声が聞こえたりするわ、なんかちょっと気になるのよね。さりげなく聞いてみても仕事してるとしか言わないし。これって、どう思う、さやかっっ!?」
 一気にそう言って、ジュンは肩で大きく息をした。どうやら相当煮詰まっていたらしい。
 さやかもジュンに見えないようにこっそり小さくため息をついた。実は今日一緒に出掛けていた間にも、ジュンの態度とその口調から、彼女が何を考えているのか大体の察しはついていたのだ。しかしさやかには鉄也が浮気するなんて到底思えなかったので、なんとかジュンをなだめて落ち着かせ、無事に家まで連れ帰ってきたというのに、シローのこの一言ですべてがブチ壊しである。
 まぁ、言いたいことは腹の中に溜め込むより発散したほうがいいとはいうけれど…。
 そう思ったさやかが、再びジュンをなだめようとしたときだった。
「…っぶっっ…ぶわ〜っはっはっはっ、は…は…は…っ、腹痛ぇっっ…!」
 突然の大爆笑に目をむければ、そこでは甲児が腹を抱えて笑っている。
「な〜いない!そんなこと絶対にねぇよ。鉄也さんが浮気? そんな甲斐性あるわけねぇじゃん。あのヒトはたとえ美女に誘惑されてても、そのことにまったく気がつかないタイプなんだからさ。鉄也さんの朴念仁ぶりはもう、天然記念物並だからね。絶滅に瀕したトキも真っ青ってカンジ? あんだけ見事なカタブツに、浮気なんて器用なこと出来っこねぇって!!」
「……………………………………………………」
「……………………………………………………」
「……………………………………………………」
 甲児の言葉に、室内に微妙な空気が漂う。
 さやかとシローは実のところ甲児の意見に全面的に賛成だったりするのだが、良く考えれば甲児は限りなく失礼なことを言っているわけで、それに賛意を示すのもどうかと思って固まってしまったのだ。
 言われたジュンの方としても複雑な気分になっていた。ここまで笑われてしまうと、鉄也が浮気をしているのでは…?と疑っていた自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。そういう面では甲児がこうやって笑い飛ばしてくれたのはありがたいのだが、反面鉄也の妻としてここまで言われると少しばかりムッとしたりもするわけだ。
 そういう三人の気持ちを察することなく、甲児は更に言葉を続けた。
「ほら、昔から言うだろ? 女房が妬くほど亭主もてはせず…ってね。安心しろよジュン。鉄也さんは絶対浮気なんかしてねぇから。どうせ、仕事に夢中になった余りに遅くなったり予定外の外出が増えたってだけじゃねぇの?」
「……………そう、そうよね、ありがと甲児くん……」
 複雑な思いを抱きながらも、一応自分を慰めてくれているらしい甲児に礼だけは言う。基本的にジュンは礼儀正しいのだ。
 鉄也が出張から帰ってきたら、ちゃんと正面から聞いてみよう。こんな風にウジウジ悩んでいるのなんて自分らしくない。
 甲児の大爆笑に毒気を抜かれたジュンがそう思ってもう家に帰ろうと立ち上がりかけた時だった。
「………でもさ」
 甲児がにやにやと笑ってさやかの方を見た。
「さやかさんは妬いてくれたっていいんだぜ? 俺はホントにモテるんだからさ。こないだもA大学行ったら助手の女の子から携帯の番号聞かれちゃってぇ〜。一緒に飲みに行きませんか?なーんてことも言われちゃってさ。ちょっとだけつきあってやったんだけど、あの子、可愛かったよなー♪」
 へらへらと頭を掻きながら甲児がそう言った瞬間、室内の温度が間違いなく十度は下がったような気が……シローとジュンにはしたのだった。
「……ふぅ〜〜〜ん、そう……」
 見ればさやかが半眼になっている。さやかの周りからは一気に冷気に吹き出しているようだ。
 これには甲児も自分の失言を悟ったらしい。自分の口を両手で押さえているが手遅れなのは明らかだった。
「妬いてあげても……いいわよ? そりゃもう、富士の樹海が消えてなくなるくらい嫉妬の炎をぼんぼん燃やしてあげるわ。でもね……?」
 ここでさやかがずいっと甲児に詰め寄った。
「嫉妬の炎が消えたときには、愛の炎も一緒に消えると思っといてねっっ!」
 さやかはくるりと身を翻すと、ジュンの腕を取って部屋を出ていく。
「さ…さやか……?」
「悪いけど、ジュン、今日は泊めてくれる?」
「……い…いいけど……」
 デパートの紙袋を2つ引っ提げて、ジュンとさやかはあっと言う間に退場していった。
 残るは男性二人である。
「……アニキって……馬っ鹿じゃーん?」
 シローの言葉に返ってくる答はなかった。



 翌日、出張から帰った鉄也に自分の抱いていた疑問をぶつけたジュンは、実にあっさりと心の平安を手に入れた。
 鉄也に関しては、実のところまったく甲児の言うとおりで、帰りが遅かったのは仕事に夢中になっていたせいでしかなかった。携帯の電源が切られていた件と、電話の向こうから女性の声が聞こえてきた件に関しては、最近開発中の新しい義手の被験者が病院に入院中の女性だったため、彼女の元を訪れる時には携帯の電源は切らざるを得なかったということ、そして、たまたま彼女が近くにいるときに公衆電話で電話したから女性の声が聞こえていたのだということも判明した。
 鉄也が天然記念物並の朴念仁であるかどうかはともかくとして、少なくとも鉄也はジュンに対して誠実な人間だったわけである。
 そして、妻に対しての誠実さが疑われっぱなしの甲児は、この二日後、プレゼント持参でジュンの元にさやかを迎えに行き、ようやく事なきを得たのだった。

 

口は災いの元……。

 

BACK