一日遅れのバレンタイン(2)

 

 翌日のさやかは朝から不機嫌だった。
「どうしたんですか、さやかさん?」
 昼休み、光子力研究所の食堂で、さやかは陰気にチャーハンを食べていた。
 さやかと同じテーブルでは、そんなさやかの様子をちらちらと窺いながら、どうしていいのかわからない顔で同じ所員の中村がラーメンをすすっている。
 彼は昨年秋から光子力研究所に研修に来ている青年で、ちょうど同じ時期に今の部署に入ったせいか、さやかは彼と日頃から親しくしていた。
 年齢こそさやかより2つ程年下だが、所内では研修生ではもったいないから正規の所員になってほしいという声まで上がるほど優秀な人材だ。おまけにジャニーズ系の顔立ちにスポーツで鍛えた体つきとあって女性所員の人気も高い。彼のデスクには昨日もチョコレートの山が出来ていて、同僚の男性所員から羨ましがられていたものだ。
「ほんと、今日は変ですよ、さやかさん」
 中村は、さやかがお湯の入っていない急須から茶を注ごうとしているのを見かねて、その手から急須を取り上げ、自分で湯を入れて戻ってきた。
「………別に変じゃないわよ。ちょっと脱力してるだけ」
 さやかは軽く笑ってみせた。さやかが笑顔を見せたことで、中村は少しほっとした顔になる。不機嫌とはいえ、別に八つ当たりをされたわけではなかったから、直接迷惑を被っているわけではないのだが、いつも明るいさやかが沈んでいるのを見ているのはなんとなく辛い。
「何が原因なのかはわかりませんけど、元気出してくださいよ」
 さやかの湯飲みに茶を注ぎながら言った中村に、さやかは今度はさっきよりも少し力強い笑顔を見せた。
 中村もそんなさやかに微笑み返す。ほのぼのとした空気が二人の間に流れる。
 しかし、その空気は、誰かが中村青年の肩をぽんと叩いたことで破られてしまった。
「…………え……?」
 振り返るとそこには、険悪な顔つきをした男が立っていた。中村は彼が誰だか知っていた。今年初めに帰国した、若手では有望な研究者だという人物だ。
「……甲児くん!」
 さやかが驚いたような声を上げた。
 そう、そこに立っていたのは、本日昼食を摂る時間さえ惜しいほどに忙しい筈の甲児だった。
「坊や、お兄さんはこの人と話があるんでちょっと席を外してくれないかなぁ〜?」
「………………」
 甲児は口許に迫力のある笑みをうかべ、全然笑っていない目で中村を睨み付けると凄味をきかせてそう言った。考えてみればそれはかなり嫌な言い方だったのだが、このときの中村は迫力に圧倒され、あっさりと席を立ってしまっていた。
 中村が立った席に、甲児が腰を下ろす。
「……何の用よ?」
 不機嫌な顔で座り込んだ甲児に、こちらもまた負けていないほどに不機嫌な顔でさやかが答えた。
「何の用はねーだろ? 朝飯んときも無視しやがって」
「無視なんてしてないわよ。ちょっと耳が人物限定で営業停止してただけ」
「それを無視って言うんだよ」
 甲児は朝からさやかに話しかける機会を狙っていたのだが、さやかの方がそれに気づかないふりをしてさっさと出勤してしまったのだ。朝食のテーブルについていた弓もシローも二人の微妙な空気に気づいていて、あえて係わらないようにしていたのは余談である。
「だから何よ。今は営業再開してるから話聞いてあげるからさっさと言えば? もうすぐ昼休み終わりだし、中村くんに悪いでしょ」
 中村という名前を聞いた途端に、それまでも決して良いとは言えなかった甲児の表情が一層険悪になる。二人のテーブル脇に立っていた中村青年が、甲児にじろりと睨まれて、一歩後ずさった。
「………昨日のコトなんだけどさ」
 険悪な顔を取り敢えず引っ込め、再びさやかに視線を向けて、言いずらそうに甲児が口を開いた。
「何?」
「帰ってきたの2時過ぎてたんだよな。あっちの所長が話好きな人でさ」
「それがどーかした? あっちの所長と親睦を深めるのは悪くないコトでしょ」
「んなこと言って怒ってんだろ」
 さやかの口調はそっけないもので、それは怒っているとき特有のものだ。さすがに長い付き合いなので甲児にはよくわかっている。しかし、さやかは僅かに頬を膨らませて視線を落とすと、小さなため息をつく。
「別に甲児くんに怒ってるわけじゃないわよ」
「じゃ誰に怒ってんの?」
「現在過去未来の自分の立場と行く末について…」
「はぁ〜〜〜?」
「どーせ甲児くんにはフクザツな乙女心はわかんないのよ」
「乙女心?」
 ついつい習慣で突っ込んでしまった甲児を、さやかがぎろりと睨む。
「文句ある?」
「ないけど…」
 甲児は慌てて首を横に振る。中村に見せた険悪な顔とはうって変わって、極力殊勝な顔をしてみせる。
「んじゃ、もう昼終わるから行くわね」
 さやかは、これで話は終わりだとばかりに、席を立とうとする。
「ちょーっと待った」
 甲児はさやかの腕を掴んで再び椅子の上へと引き戻す。さやかもしぶしぶといった体できちんと座りなおした。
「だから何?」
「俺、昨日慌てて帰ってきたのにさやかさんもう寝てるしさ」
「……………」
「シローに聞いたらずっと待っててくれたみたいだって言ってたし」
「……………」
 さやかは、余計なことを言わないようシローにクギを刺しておかなかった自分のうかつさを呪った。
 確かに昨日の自分の行動はみえみえだったと思う。時計とチョコを交互に見てため息をついていたのだから、察しのいいシローなら、自分が甲児を待っていたことも、そしてそれが何のためかも分かるだろう。あとはせめて、自分の目的をシローが甲児に話していないことを祈るだけだ。もしそこまで話していたら…、当分シローの朝食は卵も味噌汁も野菜も焼き魚も抜きの白いご飯だけにしてやろうと心密かに決心する。
「……………でさ…」
 頭の中でシローに対する報復を考えることで現実逃避をはかっていたさやかは、テーブルごしに身を乗り出してきた甲児に間近で見つめられていることに気づき、少しだけ動悸が早まるのを感じた。
「一日遅れでもいーから、欲しいんだよな」
「………何のことよ?」
「だから、チョコレート」
「…………………………………」
 シローの明日からの朝食はかなり貧しいものになりそうである。
「俺もさー、昨日女の子からチョコ貰うまで、日本のバレンタインの習慣って奴をすっかり忘れててさ。出掛ける前にさやかさん探したんだけど、出張だっていうし。せっかくだから欲しいだろ、チョコレート」
 いくらシローから吹き込まれたとはいえ、わざわざそんなことを言いにきたのかと思うと、さやかは少しばかり頭が痛くなる。
 そんなことは家に帰ってから言えばいいのに…と考えて、ここしばらくの自分たちの生活に、自宅で会話するということすらなかったことを思い出して、そういう自分たちに心底うんざりした。
 ここは昼休みで賑わっている食堂で、隣にはさっきまで一緒に昼食を摂っていた中村がどうしたらいいものかと困惑しきった顔つきで佇んでいる。周囲にすでに野次馬が集まってきているのもわかる。でも、もうこうなったら仕方がない。甲児だって覚悟の上の行動なのだろう。
 さやかはゆっくりと息を吸い込んだ。
「なんでわざわざあたしに言うのよ」
「だから、昨日待っててくれたっていうから…」
「甲児くんは昨日、所内の女の子からいっぱい貰ったんだから、もういらないでしょ。甘いもん食べすぎると糖尿病になるわよ!」
「他の女の子のはどーでもいーんだよっっ!! 俺はさやかさんから貰いたいんだって!!」
 背後から「おおっっ」というどよめきが上がった。それは「良く言った」という称賛だったのか、それとも「この二人はそういう関係だったのか」という驚愕だったのか。
「用意してくれてねーの?」
「くれてないとは思ってないでしょ?」
 ニッと笑う甲児を見て、「勝てないなぁ」とさやかは思う。
 結局、自分は甲児を好きなのだし、今回のは今までの甲児にしては比較的直接話法に近い言い方だと思う。それだけで気持ち的には満足してしまっていた。
 でも、このままあっさりとチョコを渡してしまうのも、さっきまでの鬱々とした気分を考えるとなんとなく悔しいかもしれない。
「チョコ…ね、あげてもいいけどさ、あのデレデレした顔やめてくれない?」
「デレデレって?」
 さやかの口調に何かを感じ取った甲児が、眉を潜める。
「受け付けの美穂ちゃんとか、事務の涼子ちゃんとかと話すときの顔よ。デレデレしちゃって、見てるだけでもイヤんなっちゃうわ」
「あれー、それって妬いてんの!?」
 甲児の声は心なしか嬉しそうだ。
「違うわよっっ、あたしは単にカッコ悪いって言ってるだけでっっ!! そういうときの甲児くんって、なんかホントにオヤジくさい顔になってんだからね!!」
 『オヤジくさい』と言われて、甲児の顔からさっきまでの嬉しそうな表情が引っ込んだ。
「そんなこと言うならなー。さやかさんだって、こいつに親切すぎるんじゃねーの!?」
 甲児は、ちょうど手を伸ばした所にあった、中村青年の腕をぐいっと引っ張った。
「はあ?」
「……まさか、こいつにもチョコとか贈ってんの」
 引っ張りだされた中村青年は、ぷるぷると首を横に振っている。自分が大変にまずいポジションにいるのだと、頭がいいだけに察しも早かった。
「……ぼ…ぼくは別に……、あの、さやかさんはいい先輩ってだけでっっ!!」
 それだけ言うと、甲児の手を振り切って彼らを囲むように輪になっている人垣のなかに逃げ込んでいく。
「なに馬鹿なこと言ってんのよっっ!! 彼は甲児くんとは違って、優秀で性格もいい真面目な人なんですからねっ!! そういう人には普通親切にするでしょーがっっ!!」
「へぇ〜、若い男の子にでれでれしてるみたいに見えたけどな」
「……………なんですってぇ〜〜〜っっ!!」
 二人の、帰国以来初めての戦闘は、こうやって開始された。

 この後、食堂はしばらく使用不能になり、甲児とさやかは食堂の責任者である女性に思い切りお灸を据えられた。
 最初は二人の喧嘩を見物していた人々も、すぐにとばっちりがくる可能性に気づいてそれぞれの職場に戻り、若手男性所員も女性所員も、二人を自分の中の「リスト」から外して次の候補に乗り換えることにし、せわしのっそりを初めとした古株の所員はそれぞれの部署で甲児とさやかの昔話をせがまれた。



 そして。
「あーあ、なんかスッキリしたなー」
 飛び散ったプラスチックの食器を拾い集めながら明るい声で甲児が言った。
「ホント。喧嘩するのも久しぶりだもんね」
 床のモップがけをしながらさやかも楽しげに答える。
「やっぱ、喧嘩相手はさやかさんしかいないよな」
「うん。喧嘩してないとあたしたちらしくないかもね」
 甲児のいうとおり、こんなに楽しく喧嘩が出来る相手は甲児しかいないとさやかも思う。昔の経験から、今では「楽しく」喧嘩をするコツを二人ともすっかり心得ていた。ただし、それに巻き込まれる側は、楽しいどころの話ではないだろうが…。
「ま、さやかさんとはこーやって、一生喧嘩し続けてくんだろーな」
 甲児がぽつりとそう漏らした。
「……………え……?」
 その言葉に含まれる意味に驚いたさやかが振り向いたとき、甲児は別に何事もなかったかのように食器を洗い始めていた。


 2月15日午後。
 喧嘩の後片付けという余計な仕事が入ったせいで今日も残業必至ではあったが、二人のバレンタインは一日遅れでそれなりに幸せに過ぎていくようだった。

おしまい。

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