指輪狂騒曲

みお

 

 

 彼の名は兜甲児という。外見はどこにでもいそうな軟派な兄ちゃん風の彼ではあるが、これでも研究者としては若いながらもそこそこ有名である。過去には日本を救った英雄だったりもしたのだが、今の彼を見てそのことを思い出す人は少ないかもしれない。とかく人間の記憶というものは風化しやすいものなのだ。もっとも、そのことに対して、彼はありがたいと思いこそすれ、腹立ちなどはかけらも感じてはいないのだが。
 ともあれ彼は、とある夕べ、ややこしい仕事に一段落つけて、晴れ晴れとした気持ちで一人暮らしのマンションへと帰り着いた。このマンションには春から住んでいる。古くて狭いが、現在の職場である某研究所に近いことだけが取り柄だ。暖房を入れ炬燵にもぐりこむと、手酌でコップ酒などすすりつつ、テレビが垂れ流しているくだらない恋愛ドラマを見るともなしにぼんやりと眺める。そうしていると、さっきまでの晴れやかな気分が薄れ、なんだか急に侘しさが襲ってきた。
 彼が決意したのはそんなときだった。
 おりしも季節は冬、人肌の恋しい時期であるとはいえなくもない。
 そのせいばかりでもないのだろうが、甲児は唐突に「結婚したい」と思ったのである。
 しかし「結婚」というものは一人ではできない。当然相手が必要になってくる。
 甲児の場合、その相手は一人しか考えられなかった。どうしてだかわからないが、彼女以外は考えられないのだから仕方がない。
 出会ってからかれこれ十年は軽く経とうかというその相手の名は、弓さやかという。
 見かけはお嬢さま風の、客観的に判断するならかなりの美人であるところの彼女だが、性格は外見を思いきり裏切っている。気はあくまでも強く、ついでに腕っぷしも強い。浮かれた街をふらついている鍛え方の足りない男共など、束になってもかなわないだろう。
 そんな彼女と出会って今までの間、実にいろいろなことがあった。日本を守るために戦ったり、海外へ留学したと思ったら呼び戻されてまたまた戦いに巻き込まれたり。
 さやかのことはずっと気になる存在ではあった。いい奴だとも思っていた。しかし、お互いに意地っ張りだったので、なかなか「恋愛関係」という段階には辿り着かなかったものだ。
 それでも何とか紆余曲折の末、そういう段階に到達して、かなりの頻度で喧嘩しながらも別れることにはならず、無事現在に至っているのは、やはり「愛」って奴のなせる技なんだと思う。
 そろそろ覚悟を決めなければと、それはもう随分前から甲児は思っていたのだった。
 それが今まで実行されなかったのは、ひとえに二人の忙しさ故だった。地球のあっち側とこっち側に離れて過ごすことも稀ではなく、同じ国にいてさえもなかなか会う事が出来ない。恋愛関係を続けているだけでも誉められてしかるべきなんじゃないだろうかというほどの二人の環境なのだ。
 この春に甲児が日本に腰を落ち着けることになり、それもさやかと同じ研究所に入るとあって、ようやく二人で会える時間も増えるだろうと思ったのが甘かった。同じ研究所で働いているにもかかわらず、ふたりでゆっくり出来る時間がなかなか取れない。
 我ながらよく我慢していると思う。女の子好きなことは自覚しているし、自分がそこそこモテる容姿をしていることも知っている。しかし、さやかがいるからと浮気もせずに清い生活を続けているのだ。
 日本に戻ってからは特に、目の前に相手がいるのに、一緒に過ごすことのできない日々が続いているのである。甲児としてもそろそろこの状況をなんとか打破したかった。
 今みたいなとき、炬燵の向かいがわにさやかがいて、馬鹿話をしながら一緒に酒など飲めたら楽しいに違いない。
 喧嘩はしょっちゅうだろうけど、一人でいるよりきっと毎日が面白いだろう。
 さやかと一緒に暮らしたい!!…そう甲児が思ったのも自然なことだった。
 そして、そのためには「結婚」しかないのだ。いくら現在二人ともが光子力研究所から離れているとはいっても、甲児にとっても父親がわりである弓の手前、同棲という中途半端なことは出来ないと覚悟している。
「よおぉし!!」
 甲児は勢いをつけてコップ酒を一気に飲み干す。
 かくして甲児は一人暮しのマンションで、大変一方的に「結婚」を決意したのだった。

 

 

 それからの毎日はなかなか慌しかった。
 さやかの親友であるジュンに連絡を取り、さやかの指輪のサイズを聞き出したり、彼女の推薦してくれた店に給料の三ヶ月分をつぎ込んだり。
 きっとジュンは甲児の目的を気づいていると思う。しかし彼女は気の回る女性なので、さやかに知らせるような真似はしないだろう。
 この隠密行動の最中も研究所の廊下や食堂でさやかに会うことはあったし、言葉も交わしたが、落ち着いて話せる機会は皆無だった。さやかは自分の関係しているプロジェクトが最終チェックの段階に入っていてとてもデートどころではなかったし、甲児の方も研究所に泊まりこみの日々が多かった。
 なんとかお互いにゆっくりと会う時間が取れたのは、それから一ヶ月も経ってからのことだった。

 

「どうしたの、今日は?」
 雰囲気のいいフレンチレストランで食事を済ませ、間接照明がほのかに店内を照らす、同じくムードのあるバーでカクテルのグラスを傾けながら、さやかが不思議そうに甲児に訊いた。
 大体いつものデートパターンといえば、酒ならそこいらの居酒屋で、食事に至っては甲児が雰囲気より質や量を優先するため、ムードのかけらもあったためしがないのだ。
 それが、食事はフレンチ、挙句の果てにこんなバーである。さやかが不思議に思っても当然だろう。
 一応一生に一度のことだしと、甲児はこれでも自分なりに頑張ったのだ。さやかもまさか、「餃子の王○」の類の店でプロポーズされたくはないに違いない。
 一応レストランでもチャレンジしたものの、どうにもこうにも話のとっかかりがなく、ここに場所を移すまで「プロポーズ」に挑むことができなかった甲児である。
「………あの…さ?」
「なに?」
 今日のさやかは、白のニットスーツに、明るい色のスカーフを合わせている。耳にはパールのイヤリング。甲児が「今日はマトモな格好してこいよ」と言ったために珍しく綺麗な格好をしている。さっきからちらちらと男の視線を感じるのは、きっとさやかに向けられたものだろう。
 バーのカウンターの隅、あまり目立たない場所に今二人は座っていた。さやかの少し明るい色の目が、甲児をのぞきこんでいる。
 ほの暗い照明、ゆったりと流れるジャズのけだるいメロディ。
『…よぉし、今だ!!』
 甲児はポケットの中の包みをぎゅっと握った。中身はもちろん給料の三ヶ月分だ。
「……これ…さ、やるよ」
 ことんと音をたてて、さやかの前に小さな包みが置かれた。白い光沢のある包み紙に銀のリボンがかかった手のひらに載るぐらいの大きさの包みだった。
 包み紙が少しふやけているのは、甲児がポケットの中で何度も握り締めていたからなのだが、それにさやかが気づかないことを祈るばかり。
「………これ、まさか…?」
 包みを見るなりさやかの顔が輝いた。さすがに女性はこういうことには察しがいいと甲児は思う。そして、自分が余計な説明をせずに済んだらしいことにほっとする。
「…そーだよ」
 さやかからふいっと目をそむけて、甲児はつぶやくように言った。大体こういうのはガラではないし、苦手なのだ。
 さやかから視線をそらしたまま、甲児は意味もなく店内に飾られている花束を睨んでいた。すぐ近くで紙ががさがさとこすれる音がするが、あえてそちらを見ようとはしない。
 もうすぐさやかは包みを開けて。そうしたら出てくるのは指輪だ。
「…うそ…!!」
 ため息のような声だった。
「…うそじゃねーよ」
 甲児は隣をちらりとうかがう。さやかは箱の中から出てきた指輪を呆然と見つめている。
「…俺と…………」
「まさか覚えててくれたなんて!!」
「………………………………………………………………へ…?」
 今やまさに「俺と結婚してくれ」、そう言おうとしたより一瞬早く、さやかが甲児のセリフをさえぎった。
 言いたいことが最後まで言えなかった甲児は、口を半開きにしたまま、指輪を手にとって嬉しそうに眺めているさやかを間抜けな顔で見つめるだけだ。
「覚えててくれた」と、さやかが言った気がするが、聞き違いではないだろうか? 「覚えててくれた」というのはどういうことなのだろう? 別に甲児は今日プロポーズすることをさやかと事前に約束していたわけではない。
 一世一代、今こそ男らしくキメようと思っていたのに、何故かキメそびれてしまった甲児は、事情を把握できないまま固まっている。
「甲児くんったら、去年もその前ももひとつ前もすっかり忘れてたから、さすがに今年忘れたら、いくら温厚なあたしでも、キレるとこだったのよ。ホント、今年忘れてたら、別れてやるって思ってたんだから」
 自分はいったい何を忘れたのだろうと、プロポーズのことは取りあえず棚上げにして、甲児は目先の疑問に頭を向けた。「温厚なあたし」という言葉に笑っちゃうものを感じたものの、今はそんなことを突っ込んでいる場合ではないような気がする。
「言っとくけど、マジで別れてやるって思ってたんだからね!!」
 さやかはめっきり真面目な顔だ。
 さやかに見つめられて甲児は焦る。何を忘れたかがわからないなんて、さやかにはとても言えることではない。そんなことを言ったら、さやかの怒りを買うのは目に見えている。何しろ相手は「別れる」とまで言っているのだ。
 今夜はさやかにプロポーズしてホテルなんかに泊まったりして…などとお気楽に考えていた甲児は、一体全体何がどうなっているんだかわからないまま、今や絶体絶命のピンチに立たされているような…気が…した。
『俺は一体何を忘れたっていうんだ……??????』
 頭ぐるぐるの甲児に、そのときあっさりと答えが与えられた。
「まさかあたしの誕生日のために、珍しくもフレンチレストランなんか予約してくれて、その上プレゼントまでくれるなんて!!」
「………………………………………………………………誕生日…………………?……」
 ぽつりと呟いた甲児は、ようやく思い出した。わざわざ手帳で確認するまでもない。
『そーいや今日って……さやかの誕生日だ……』
 思えば去年はまだアメリカにいて、時差を理由に忘れていたことを弁解したのだった。その前の年はもっと完全に忘れていて、気がついたのは一ヶ月以上経ってからだった。そして更にその前は…。
 甲児の脳裏にどんどんとまずい思い出がよみがえってくる。
 シローの誕生日だの、祖父や両親の命日だのは決して忘れないくせに、どうしてだか甲児は、例年さやかの誕生日だけを忘れてしまう癖があった。さやかの誕生日は何故か必ず甲児の財布がピンチの時、要するに給料日前にあたっていたため、無意識の防御本能が働いたのかもしれない。ちなみに、さやかへの誕生日プレゼントは、いつもうやむやになってしまい、ほとんど贈ったことがなかった気がする。
 そして今年は…。
『……………忘れてたよ……』
 理由はもちろん、仕事の多忙さとプロポーズ大作戦に気を取られていたせいだ。
 頭を抱える甲児の隣で、さやかはほくほくと指輪をはめている。
「でも、高かったでしょ、これ。4〜5年分の誕生日プレゼント、いっぺんに貰ったみたい♪」
 はしゃいだ声を上げるさやかのセリフの一箇所に、甲児はものすごく悪い予感を覚えた。
『……………誕生日プレゼント……………??』
 もしかすると、甲児の給料3ヶ月分は、さやかに「誕生日のプレゼント」として認識されたのだろうか? 確かに指輪を選ぶとき、ありがちな「婚約指輪」的な形のものを避けたから、普通のデザインリングに見えないこともない。
「………ちょっと待て、ち………」
「え?」
 さやかがきょとんと甲児を見つめる。
『違うって…言ってもいいのか、俺?? また今年も誕生日を忘れてたなんてさやかが知ったら、今日のプロポーズ大作戦は失敗に終わるし下手すりゃ思いきりこじれちまう…。その上、絶対、多分、間違いなく、当分触らせてももらえない……………』
 どんよりとした気分で甲児は目の前の空き箱を睨んだ。
『俺、もう一回給料の三ヶ月分を買わなきゃなんねーってことか!? それとも誕生日を忘れてたことを告白するべきなのか!?』

 

 甲児が、給料の「6ヶ月分」を婚約指輪につぎ込む羽目になるのか、それともなんとかそれを回避するのか…。
 まだまだ予断を許さない状況である。

 

……………ご愁傷さま…………(笑)。

 

 

おしまい

 

 

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