今日も平和に日が暮れる

 秋晴れの空をバックに、富士山が美しい姿を見せている。

 シローは今日、夏休み以来久しぶりに光子力研究所へ帰ってきた。というのも、研究所から……正確に言えばみさとから緊急招集がかかったためだ。
 他の皆は仕事を終えてからしか来られないだろうから、午後の授業をサボって駆けつけた自分はきっと一番乗りだろう。バイト代を貯めて先ごろようやくゲットした愛車を駐車場に停め、シローは研究所へと入っていく。
 小学校高学年から高校卒業までの大半の時間をここで過ごしたシローには顔見知りの所員も多く、いかに気が急いていようとも挨拶は欠かさない。それでもいつもより急ぎ足で歩き、やがて見えてきたのは弓家の居住空間へと続くドアだ。

 そのドアを開けたとき、シローは思わず微笑んでしまった。余りにも聞き覚えがあり余りにも懐かしい物音が耳に飛び込んできたからだ。

「ただいまーっ!」

 廊下の向こうから聞こえてくる物音に負けないような大声で呼びかけると、奥から一人の女性が顔を出した。

「シローくん、おかえりなさい」
「ただいま。ねぇ、みさとさん、あれっていつからなの?」

 二人が顔を向けた方向が騒々しい物音と声の発生源だ。

「ついさっきからよ。えーっと、十分ぐらい前かしら。ずっと仲良さそうにしてたのに、部屋へ行った途端にあれ」
「……あの様子じゃしばらく放っておくしかないね」
「ええ、巻き込まれたら大変ですもの」

 みさとは微笑んでそう答える。この程度の騒ぎで動じていてはこの家のハウスキーパーは勤まらない。

「大学お休みして大丈夫だったの?」
「うん。午後からは大した講義もなかったし、明日は休みだしね。しっかしあの二人も、帰って来るなら来るでもう少し早く連絡くれればいいのに。他の皆も仕事あるのにさー」

 ぶつぶつ言いながらもシローの表情は楽しげだ。

「急だったからみさとさんも今夜の準備大変だっただろ?」
「そんなことないわ。買い物に行く時間はあったもの。久しぶりに腕を振るえて楽しかったぐらいよ」

 結婚後もここの仕事を続けてくれているみさとに無理をさせたわけではないとわかり、身内としてシローはホッとした。あっちはしばらく放っておくしかないため、みさとのあとをついてキッチンに入る。

「……うわ、いい匂い!」

 キッチンでは今まさに見事な料理の数々が出来上がりつつあった。匂いをかいでいるうちに小腹がすいてきて、鍋やらせいろやら冷蔵庫やらを勝手に開けてつまみ食いを始めたシローは、みさとに軽く睨まれて慌てて手を引っこめた。

「鉄也さんたちも来るんだよね?」
「ええ、ご夫婦でいらっしゃるわ。もちろんボスたちもね」

 今夜は久しぶりに懐かしい顔が揃う。鉄也とジュンがシャンパンと花束を買って来るとか、ボスが日本酒を調達してくるとか、既にそれぞれ受け持ちが決まっているらしい。

「弓先生はまだ?」
「二人が着いた時に顔だけは出されたんだけど、今日はお忙しいらしくて今は会議中よ。そろそろ終わる頃かしらね」

 そう言って時計を見上げたみさとが少し困った顔になる。
 弓が帰ってくるならあの二人をあのままにしておくわけにはいかない。その昔、二人の喧嘩を止めようとしてバケツや花瓶を被るハメになった弓の姿を思い出し、ここは自分が行くべきだとシローは腹をくくった。

「みさとさん、俺、行ってくるよ」
「骨は拾ってあげるわ」

 みさとから差し出された揚げたての肉団子を口に放り込むと、シローは意を決して兄の部屋に向かった。

 

 

 騒ぎの元は兄・甲児の部屋。そして本日の緊急招集は甲児とさやかの突然の帰国によるものだ。
そろそろ静かになっているかもという淡い期待はあっさり裏切られ、シローはいよいよ覚悟して甲児の部屋のドアの前に立った。物音を立てないようにそっとドアを押し開ける。

「服とか着物とか細かいことにこだわってんじゃねーよっ!」

 ぼすんと何かが壁に当たる音。

「細かいことって何よ! こういうことは、単にやればいいってもんじゃないんですからねっ!」

 ばしんと何かが床に叩きつけられる音。

「……………………」

 細い隙間から中の様子を覗いたあと、シローは一旦ドアを閉め、大きく深呼吸をして笑顔を作ると、再び思いっきりドアを開けた。

「兄貴、さやかさん、おかえりっっ!」

 シローの声が響いた途端、室内で暴れていた二人の動きがぴたりと止まった。同時に視線を巡らせて同時に声を上げる。

「シロー!」
「シローちゃんっ!」

 甲児は今にも投げんばかりに構えていたクッションをあっさり放り出し、さやかはこれまた投げつけようとしていたらしい雑誌をソファにぽんと投げると、二人一緒にシローの元へと駆け寄ってくる。

「シロー、お前また背が高くなったんじゃねーか!」
「二十歳過ぎてんのに、伸びるわけないじゃん」
「もうっ! しばらく見ないうちにいい男になっちゃって!」
「さやかさんも綺麗になったね」
「あら、ありがと」

 二人とも、先程まで喧嘩していたことが嘘のような笑顔だ。
 もっとも、今回の二人の喧嘩がさほど深刻なものではないことぐらいシローにはわかっていた。それはドアからちらりと覗いただけでわかる。二人とも武器は柔らかいクッションや薄い雑誌だったし、しかも相手が上手く避けられるように投げていた。部屋が余り荒れていないということは、投げる場所を考える余裕まであるということで、至って冷静だ。

「久しぶりに会うって言うのに、いきなりバトルを見せるなんてひどくない?」
「あー、それはまぁ、悪かった」
「……ごめんなさい」

 甲児もさやかもさすがに恥ずかしいらしく俯いてしまう。

「ま、二人とも元気だってことはよ~くわかったけどね。で、どうしたの今回は。急に帰ってくるなんて珍しいじゃん」

 甲児とさやかは現在アメリカの研究機関にいる。年に一度は休暇をとって帰国しているが、今回の帰国は急なことで、連絡があったのは二人が日本行きの飛行機に搭乗する直前だったらしい。

「……あー、まぁそれは……だな……」
「そうそう、あのね、なんていうかその……」

 二人は揃って言い難そうに口籠る。微かに顔も赤い。

「……あー、いいよいいよ、別に言わなくて」
「………え?」
「今回は要するにあれでしょ。弓先生に報告っていうか許可って言うかそういうのもらいに戻ってきたんじゃないの?」

 シローの視線が二人を通り過ぎて奥のテーブルに向かう。そこにあったのは、万が一人に向かって投げたりしたらかなり危険な厚さの雑誌だった。白い衣装をまとった女性が微笑んでいる写真が表紙になっているのが見える。
 シローの視線を辿ったさやかが、慌てたように雑誌の前に立ちはだかった。

「……あのっ、別にその、あたしたちはっっ!」
「あたしたち……ね」

 焦るさやかと既にそっぽを向いている甲児。シローはそんな二人を可愛いと思ってしまった。あの頃は二人のことを随分年上に感じていたものだが、今となってはこの程度の年の差など大した違いではない。精神年齢で言うならば、もしかして兄たちより自分の方が上なのではと思うこともある。

「ま、いいけど。皆わかってると思うよ。みさとさんはお祝いのお赤飯炊いてくれてたし、鉄也さん達がシャンパンと花束、ボス達が日本酒だか焼酎だかを持ってくるって話だし」
「……………え……?」

 ここで急に甲児が慌て出した。

「おい、シロー。言っとくけど、俺たちは別に順番逆になったってわけじゃねーんだからなっ!」
「順番?」
「だーかーらー、出来ちゃったから慌ててるってんじゃなくて……っ!」

 言い終わらないうちにさやかが甲児の頭をはたいた。

「いてっっ!」
「シローちゃんに向かって何言ってるのよっっ!」

 さやかの顔は真っ赤だ。

「シローちゃん、あのね、甲児くんが来月から長期のプロジェクトに入るってことが急に決まっちゃって、そうなるとしばらく帰国も出来なくなるし忙しくもなるし、それなら今のうちに色々片付けておこうかって話になってね!」
「そうそう、忙しくなる前に長めの休暇を貰えることになったんで、急に帰って来ただけなんだ。前々から話は出てたから、別に出来ちゃって急いだわけじゃ……っ、いでっっ!」

 またもやさやかに頭を叩かれ、甲児はその場にうずくまってしまった。かなりきつい一発だったらしい。 必死に言い訳をする二人は本当に可愛いとシローはまたしても思う。誰もそんなこと聞いてもいないのに。仮に「出来ちゃった」だとしても誰も非難はしないだろう。

「そういうことは弓先生に言ってよ。もうすぐ会議終えて戻ってくるから」

 シローがそう言うと急に二人があたふたし始めた。甲児は髪を撫でつけ、さやかはそんな甲児の服についた埃を払ってやる。さっきまでバトっていたとも思えない甲斐甲斐しさだ。

「そんなかしこまらなくてもいいのに。今更弓先生が反対するわけないじゃん。兄貴とさやかさんを二人で留学に出した時点で覚悟してるって。むしろ喜ぶんじゃない?」
「……そ、そうかな……」

「そうそう、全然問題ないって。心配するなよ、兄貴。それよりもさー、そんな話はさっさと済ませて飯にしようよ。俺、もうお腹ぺこぺこなんだから」

 その余りに軽い口調に甲児が反応した。

「……そんな話とはなんだ! 兄の人生の一大事より飯の方が大事だって言うのかっ!」
「別にそういうわけじゃないけどさ、みさとさんの作ってくれた料理、すんげー旨そうだったんだもん」
「………みさとさんの料理か……確かに」

 憤慨していたはずの甲児の表情がガラリと変わる。

「みさとさんは料理上手だもんなー。さやかさんもあそこまでとは言わないけど、せめて食えるもん作って欲しいよな~」

 どうやら心からの述懐らしかったが、この発言はかな~りヤバい。予想通りさやかの顔から笑顔が消えた。しかし甲児は気付かずに続けている。

「あ、でも、料理ぐらいへたくそだって、さやかさんには他にいい所があるから……って、あれ? いい所ってどこだ?」

 甲児は真剣に考え始めた。火に油を注ぐような言葉と態度。これはもう完全にアウトだろう。

「どういう意味よ、甲児くんっ!」

 我が兄ながらどうしてこうも空気が読めないのか。もっとも甲児のこんな態度はさやか限定で、普段はどちらかというと如才ない方だ。社会生活に支障はないだろう。
 シローが若干現実逃避気味にそんなことを考えているうちに新たなバトルが勃発していた。気が付けば二人が目の前で何やら言い合っている。せっかく一度は止めた喧嘩を二人は性懲りもなくまた始めてしまったのだ。
 もう一度止めようかどうしようかと迷っていると。

「甲児くん、さやか、悪かったね。会議が長引いて……」

 いきなりドアが開き、笑顔の弓が部屋に入ってきた。が、その弓の顔面向けて、さやかの投げたクッションが一直線に飛んでいく。

「………………あ………」

 クッションは弓の顔面に当たり、そのままぽとりと床に落ちた。

「お父さまっっ!」
「先生っっ!」

 この時の弓の顔からは既に笑顔が消えている。

「甲児くん、さやかっ! 君たちはいい年をしてまだそんなことをやっているのかね!」

 弓が二人に説教を始めるのを背中に聞きながら、シローは部屋から退散した。これ以上ここにいるとシローまでとばっちりにあいそうだ。

「あーあ、兄貴、ここからどうやって『娘さんを下さい!』に持ち込む気かなぁ」

 一応弟だ。心配はする。それ以上に面白がってはいるが。

「これは当分飯にありつけないかな」

 シローは今出てきた部屋を振り返った。すでに喧嘩は彼らにとって単なるレクリエーションになっている。愛情の確認手段とも言えるかもしれない。あの二人にはこれからもああやって楽しく喧嘩をしていって欲しい。
 しかしシローには心の奥でずっと消えない不安があった。もしもまた戦いが起こったら? あの二人のことだ。そうなれば再び戦いに赴くだろうことは想像に難くない。

 かつての自分はただ心配して祈るだけだった。しかしこれからはそうじゃない。傷ついた二人は自分が助ける。祖父や父、兄とは違う道を選んだシローのそれは理由の一つだった。

「兄貴のことだから、そういうのなくても怪我しそうだし」

 実験中の事故で命を落とした母のこともある。無鉄砲な兄をフォローするのも弟の役目だろう。

「俺が国家試験合格したら、そのときもみさとさん、お赤飯炊いてくれるかなー」

 もう一度つまみ食いをしに行こうとキッチンに向かいかけたとき、背後のドアが勢いよく開いた。

「シローくん! 甲児くんとさやかがとうとう結婚を決めたそうだよ!」

 説教されている状態からいつの間にそっちへ話を持って行ったのか。とりあえず甲児は『娘さんを下さい』に成功したらしい。しかも一発OKのようだ。弓の顔は相当緩んでいる。

「こっちにいる間に式もしたいと甲児くんが言ってくれてね。さやかの花嫁姿、あれの母親にも見せたかった……」

 まだ酒は入っていない。なのに弓は酔っぱらってでもいるかのようだ。今夜はきっと泣き上戸だろう。当然ボスは荒れるだろうし、鉄也に二人を宥めるのは無理だ。頼りになるジュンとみさとにすべてを任せて、今夜は自分も楽しく飲んだくれてしまおうとシローは考える。

「おー! 兜ぉ! 帰ってきたんだってなーっ!」

 向こうからボスの声が聞こえてくる。照れくさそうな甲児とさやかが部屋から出てくるのが見える。
 もうすぐ鉄也とジュン、せわし博士とのっそり博士もやって来るだろう。みさとの夫も呼ばれているらしい。

 

 

 甲児とさやかの結婚話を肴に、光子力研究所の宴会が間もなく始まろうとしていた。

 

 

おしまい

メッセージは文字まで、同一IPアドレスからの送信は一日回まで

これも広瀬さんの御本に書かせていただいた小説です。なんとなく結婚シリーズになっちゃった感じ。
鉄也とジュンの話より先に書いたものなんですが、時系列だとこっちが後っぽいのでこの順にしてみました。