「早まったかなぁ…」
「んー?なんか言ったか?」
さやかのこぼした小さな呟きは、どうやら甲児の耳には届かなかったらしい。
リビングのソファに座り、この先のスケジュールが表示された端末の画面を見ていたさやかは、隣のキッチンで夕食を作っている甲児に向かって答えた。
「んー、この先も予定が詰まってるなぁって思って」
「そりゃあな。まだまだあちこちガタガタしてるし」
世界を滅亡一歩手前まで追い込んだドクターヘルとの戦いは記憶に新しい。破壊された町や施設の完全復旧にはまだまだ時間がかかるだろう。
戦いの後、光子力研究の責任者であるさやかは、施設の復旧に走り回っていた。富士の光子力プラントはもとより、被害が甚大だったテキサスにはさやか自身が足を運ぶ必要もあり、政府や関連機関との折衝や会議などなど、目の回る忙しさだった。また、怪我が治った甲児も別の意味で忙しかった。世界を救ったヒーローである彼は、なんのかんのとマスコミや市民の前に出ることを望まれたのだ。もちろん無理強いされたわけではなかったが、甲児の存在が被災者の力になるからと言われては無下に断ることもできなかった。甲児自身も戦い後の復旧事業には関わっていたし、これまで通りの研究もあるしで、こちらもまた忙しい毎日を送っていた。
そんな中、甲児とさやかが何とか結婚にこぎつけられたのは、ある意味とてつもない僥倖とも言えるだろう。その影には彼らの幸せを願う、いや、放っておいたらいつまで経っても二人はこのままなのではないかということを危惧した、周囲の人間の働きがあった。
もちろん当事者である二人も今まで通りでいいとは思っていなかったが、いかんせん忙しすぎたのである。多忙からすれ違いが起こり破局に至るカップルは多いが、二人の場合そういうあれこれはもうすべて乗り越えてきているので、今更その程度のことで壊れる関係だとはお互い思っていない。なので、もろもろが落ち着いてから結婚すればいいやと軽く考えていたのである。
が、しかし、二人の周りの人間はそうではなかった。目の前でこっ恥ずかしいプロポーズ(?)も見せられたことだし、いい加減ちゃんとまとまりやがれ…と、意見の一致を見た友人たちは、二人が滞りなく結婚式を挙げられるよう、周りの人間に働きかけたのである。結果、「甲児さんと所長のためなら」と所員は頑張ってくれ、「わしらもまだ働けるぞい」と隠居生活を満喫していた博士が出戻ってくれたりで、なんとか時間の余裕が出来た二人は無事に結婚式を挙げることに成功したのである。まだ、つい最近のことだ。
世界を救った英雄と世界のエネルギーを左右する女傑との結婚だ。世界中から多大な注目を浴びたが、その注目度に比べて、実際の結婚式は大変質素でこじんまりしたものだった。
親しい友人や身内に祝われたアットホームな結婚式。それはとても心のこもった温かなものだった。南の島で思いっきりバカンスがしたい!という新婚旅行の希望だけは叶わなかったが、二人はめでたく結婚に至ったのである。ちなみに、実際に行った新婚旅行は近場の温泉への二泊三日だったが、多忙を極めていた二人にとって、それはそれでそれなりにいい思い出となった。
そうして二人は新たな生活をスタートさせた。仕事が忙しいのは変わらなかったが、今までとは違い二人で一緒に暮らす生活は思いのほか楽しいもので、意外なほどに喧嘩も少ない。
結婚にあたって二人は、朝食と夕食は極力一緒に食べようと決めた。それは、仕事に夢中になると食事を忘れがちになる甲児にとってはなかなか難しい課題だったが、今のところ問題なく遵守されている。忙しい二人のこと、一緒に外食する日や総菜を買ってきて済ませる日もあるが、今日は甲児が夕食を作ってくれることになっていた。
甲児に呼ばれてダイニングテーブルにつくと、あっさりした和食中心のメニューが並んでいる。これは、ここしばらく体調の悪いさやかを気遣ってくれてのことなのだろう。本人はそうとは言わないが、長い付き合いだ、さやかにはその程度のことはわかる。
「ありがとう! おいしそうね! お腹空いてきちゃった」そう言って二人で食べ始めれば、さやかの食べっぷりを見て、甲児が満足そうな顔になる。
「うん、おいしい。甲児ったら私よりうまいわよね、料理」 これは本音だ。もともと器用な甲児は、シローに食事を作ってやっていたこともあったらしく、料理は割と得意な方だった。
褒められて嬉しいらしい甲児はご機嫌な様子で食事を続ける。先日ここに遊びに来たボスヌケムチャの話や、のっそり博士がぎっくり腰で大変だったらしいというニュースやら、楽しく話しているうちにさやかも食が進み、出された料理はほぼ完食できた。空になった食器を眺めて甲児もにんまりしている。
今日、さやかには甲児に言いたいことがある。食事の前にしようかなと思ったが、そうするとせっかくの料理が冷めてしまいそうだったので、落ち着いてからの方がいいだろうと、ソファで寛いで食後のお茶を飲んでいるタイミングでそれを口にした。
「あのね、甲児。私どうやら、できたみたいなの」
「ん?」
テレビを見ていた甲児の顔がくるりとさやかの方を向く。
「……できた?」
「そう。私、赤ちゃんができたみたいなの」
「………あ…あか……」
言って甲児はたっぷり30秒フリーズした。が、その後、持っていた茶碗をテーブルに置いて、おもむろにさやかの両肩にがっしと手を置いた。そしてさやかをじっと見る。
「まじか」
「まじよ」
そっと視線を下げてさやかの腹部を凝視して、そのまま甲児はまた数十秒固まり。ふいにさやかをぎゅっと抱きしめた。
「やった!」
「…ちょ…ちょっと!痛いわよ、痛いって!」
余りにも強く抱きしめられて、ぽかぽかと甲児の頭を殴るとほんの少し腕の力が緩まった。
「この間から体調悪かったの、そのせいだったみたい」
「……そっか」
「今日ね、病院へいってきたの」
「そっか」
「だからね」
「うん」
「これから色々大変だと思うけど……」
「二人……いや、三人で頑張っていこうな!」
さやかを見つめる甲児の満面の笑み。心底喜んでくれていることが伝わってくる。
肉親の縁が薄かった甲児が、家族を作ることを不安に思っていたことをさやかは知っている。
「そうね」
甲児の顔を見ていたらなんだか泣けてきたけれど、さやかは涙は堪えて甲児と同じ満面の笑みを作った。
そして。
「うわ、どうしよ、俺。お父さん? 俺が?」
今、甲児は何やらぶつぶつ呟きながら部屋の中をぐるぐると歩き回っている。
「赤ん坊が生まれたら…、えーっと、何がいるんだ? ベビーベッドとかおむつとか、あのぐるぐる回るやつとか。俺、お風呂とか入れられんのか? 練習しないと! そうだ。子どもがいたらこのマンションでは手狭だよな。一軒家建てるか? 場所、どこがいい? 研究所の近くで、環境良くて緑多くて学校近くて、ああ、病院もないとな。小児科のいいとこ!」
どうやら甲児の思考は暴走を始めたらしい。ここらで引き留めておくかと思ったさやかは声をかける。
「落ち着いてっ! まだ生まれるまでには何か月もあるのよ。それに。ちゃんと生まれるかもわからないし…」
「ちゃんと生まれるにきまってる」
甲児はきっぱりと断言した。
「この子はきっとすごく強い子だ」
「なに、その自信」
「俺にはわかる」
「私もそう思うけど」
それはさやかも疑っていなかった。この子は絶対無事に育ってこの手に抱かれにやってくる。そこは疑っていないけれど、甲児があまりに自信たっぷりに言うのも気になった。もしかして甲児の所へも……?
「よし、じゃあ、名前だ! 名前決めないとな!」
「だからー! まだ先だって行ってるじゃない! 男か女かもわかんないのに!」
「女の子だよ」
またもや甲児は断言した。その確信ありげな表情には、わずかな迷いも感じられない。反論しようとしたさやかだったが、では男だと思っているかと言えばそうではない。
「私も女の子だと思うけど……」
さやかも、この子は女の子だと思っている。いや、女の子だと知っているのだ。
「なら、ほら、名前の候補ぐらい決めておいてもいいじゃん」
「候補…じゃあ、ない気はするんだけど……」
名前。女の子の。
甲児とさやかの視線が合った。そしてわかった。二人は今、同じことを考えている。同じ面影を脳裏に浮かべている。
「名前…さ。考えてるのがあるんだよね」
甲児はさやかの表情を伺いながら言う。
「うん。実は私もある」
「甲児のつけたい名前って、どういうの?」
「さやかこそ、何て名前考えてんだ?」
「甲児からどうぞ」
「いや、さやかから言えよ」
何だか変な譲り合いを始めた二人だったが、お互いになんとなく、わかってしまった。
「じゃあ、いっせーので言おうぜ」
「いいわね」
「いっせーの!」
「「リサ!」」
それは結婚式の後のことだった。
式を終え、二泊三日の温泉旅行へ向かう車の中で、さやかはついうとうとと寝入ってしまった。本日の主役とあって、朝早くからずっと髪だ化粧だ着付けだと慣れないことをしていたのだ。いくら身内だけの式&披露宴だとはいえ、疲れていないわけはない。
心地いいまどろみの中、ふいに自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
『……さやかさん』
懐かしい、忘れられない声。
『……そっちへ行っていいですか?』
声がさやかに問いかける。不思議だとは思わなかった。心のどこかでそんな予感があったのかもしれない。
『さやかさんのところへ、行ってもいい?』
思い出す声の主のその表情、きらきらとした目、笑い声。さやかを心配して流してくれた涙。この世界を救うために出て行った背中。
『……私……さやかさんと家族になりたい。だから……』
少し不安そうな。でも期待に満ちた声。
『…行っても…いい?』
そんな風に言われたら。さやかとしてはこう答えるしかない。
「当り前じゃない! どんと来いよ! 今すぐにでもいらっしゃい!」
『………!』
嬉しそうな気配が伝わってくる。
彼女は来てくれるのだと、さやかは確信した。どういう形でなんて、そんなことは決まっている。
別にそのためなわけじゃないけれど、もちろんその夜はするべきことをした。なんといっても新婚初夜なので。
夜。目を覚ましたさやかは、甲児が自分のお腹を抱き締めた状態で眠っていることに気付いた。
「器用なやつ……」
ちょっとだらしないぐらいの嬉しそうな顔で、さやかのお腹にほおずりして眠っている甲児を見ていたら、幸せだな…と思った。と、同時に。
「今すぐって言ったのは、ちょっと早まったかなぁ」
甲児と二人きりの新婚生活をもう少し楽しみたかったとは思う。近場の温泉ではなく南の島へバカンスに行こうとも話していた。仕事だってまだまだ忙しい。
「でも、まぁ」
信頼出来る部下たちは、割り振った仕事をきっちりこなしてくれるだろう。臨月ぎりぎりまで働くつもりだが、その後は彼らにどんと任せておけばいい。
やりたいこともやらなければならないこともまだまだたくさんあるけれど。
でも、それよりも会いたかったんだから仕方がない。
「次にあなたに会った時にはもう、「機械のくせに」って言わなくていいのね」
可愛くて。そう言い聞かせないと勘違いしてしまいそうだった。
どんな演算能力を持っていようと、甲児が保護した頃の彼女はこの世界のことを何も知らない赤ん坊のようなものだった。ミケーネの遺産に現代日本の生活様式がイントールされているわけはなかったのだ。
だから、洋服の着方、食事の仕方、日常生活のあれこれ、そして人のぬくもり。それらすべてを教えたのは甲児とさやかの二人だった。最初の頃、一人で眠ることを不安がった彼女と一緒のベッドで眠っていたのはさやかだ。猛烈な速度で成長し、日々この世界になじんでいく彼女を見ている間、自分の中に芽生えていたのは、今思えば母性愛ってやつだったんじゃなかろうか。
「…少し早まったかなとは思うけど」
暑苦しい甲児の腕を振りほどいて、さやかは自分のお腹にそっと手を当てた。
「早く会いに来てね、リサ」
おしまい
メッセージは文字まで、同一IPアドレスからの送信は一日回まで
異論はあると思いますが、軽く読み飛ばしていただけると幸いです。