季節は春。時折心地いい風が吹いている。気候がいいからか、俺のテンションを少しでも上げようと気遣ってくれたのか、今日のお茶会は王宮の奥にある王族の私的な庭園で行われることになっていた。
いつもは弟妹達が走り回っている庭園だが、今日の彼らはハンカチのお礼をもらった後、魔法制御の授業を受けているはずだ。
最近、こっそり恋愛小説を読んでいる妹は、この「婚約者との茶会」に興味津々だ。室内ならともかく、場所が野外となると覗きにくる可能性があるので、わざとこの時間に魔法制御の授業を入れてもらったのだ。
二人は共に水属性なのだが、魔力の多さもあって制御するのが難しいらしい。今頃は教師にびしばししごかれていることだろう。
弟妹は我が婚約者殿ともうまくやっている。というか、何なら結構懐いている。一度弟に訊いてみたら、自主練で魔力制御に失敗してずぶ濡れになった二人を、婚約者殿が風魔法で乾かしてくれたことがあったらしい。以来、良好な関係を築いているようだ。多分、俺よりも。
俺が水魔法でずぶ濡れになったら彼女は風魔法で乾かしてくれただろうか。いや、俺が風魔法も使えるということを知っているから、敢えてそんなことはしてくれないに違いない。
悲しい結論に至った俺は、気持ちを切り替えて、目の前の東屋に目を向けた。
庭師が丹精をこめた庭園は今が盛りの花が咲き誇っている。その花に負けないほどの美少女が俺を目にして立ち上がり、優雅に礼を取ってきた。
彼女が俺の婚約者である侯爵令嬢だ。同い年の17歳。父である侯爵は魔力に優れ、魔術塔の責任者を務めている。その娘である彼女も豊富な魔力を持っていると聞く。属性は光で他に水と風の魔法も使えるらしい。3属性持ちは少ないので、そんなところも婚約者に選ばれた理由かもしれない。
顔を上げた彼女は通常運転の無表情だ。完璧な淑女と言われている彼女が陰で『鉄壁の淑女』だとか『氷の淑女』などと言われているのは、感情の起伏を表に出さず、自分にも他人にも厳しく、自分の立ち位置を心得た隙のない振る舞いから一般の生徒にはそのように見られているのだろう。そんな彼女でも、友人たちに囲まれている時は柔らかい表情を見せることがある。その表情を俺に向けてくれることはついぞないわけだけれども。
「先月はみっともないものをお渡しして申し訳ございませんでした。一ケ月遅れになりましたけれど…」
そう言って彼女が差し出してきたのは、見事な刺繍のハンカチだった。抑えた色遣いで俺の紋章が縫い取られている。まぁ、毎年同じ意匠なわけだが。
「先月お渡しした物はどうか捨ててくださいませ。少し…ええ、少し体調が悪かったので、失敗してしまいましたの。失敗した物を殿下にお渡しするなんて、わたくしとしたことが、どうかしておりましたわ」
彼女は一気にそれだけ口にした。正直驚く。お茶会三回分ぐらいの分量の言葉を喋ってくれたんじゃなかろうか。
「いや、気にしなくて良い。しかしそなたでも失敗することがあるのだな」
あれは体調が悪かったとかそういう問題じゃない仕上がりだったと思うのだが、口にしないでおく。どうやら、他意があってのあのハンカチではない…らしい。
「もちろん、わたくしも人間ですもの。調子の悪い時もありますわ」
にっこりと笑顔を向けられる、笑って誤魔化されたような気がする…と思ったのが前世の俺で、王子としての私はものすごく驚いていた。彼女が笑顔を向けてくれるなんて未だかつて一度もなかったのだから。
王子としての教育のたまもの、表情を変える事こそなかったが、頭の中はパニックである。一体全体何が起きているのだ!!
驚きが押さえきれない俺の前で、彼女は更に驚きの行動を取った。
「まぁ、綺麗なケーキですのね」
そう言っておもむろにフォークを手にしたのだ。そのまま彼女はいつになくにこやかな表情で、目の前のスイーツを食べ始めた。
「あら、美味しい」
またもや笑顔だ。まったくもってどうなっているのかわからない。そろそろ俺の王族として培った自慢の表情筋が仕事を放棄しそうになってきた。
王宮パティシエが腕を振るった菓子の数々。それはすべて婚約者のために用意した物なので、本人が食べて何の問題もない。が、今まで彼女はほんの少しつまむ程度だった。決して今のように二つ目のケーキに手を出したりはしなかったのだ。
一度「甘いものはお嫌いですか?」と尋ねたことがあるが、「いいえ」という一言で会話は終了した。母との茶会ではもう少し食べているらしく、甘いものは好きだと聞いている。なので毎回用意はするのだが、ほとんどは彼女に食べられることなく、わが弟妹達や侍女たちのお腹に消える。
今が盛りの花々に囲まれた東屋。そこでぱくぱくとケーキや焼き菓子を食べていく美少女。何を言えばいいのか、どういう態度をとればいいのか決めかねて、ただ彼女を眺めていた俺はそのとき、彼女の髪が風に揺れているのに気づいた。
彼女の髪が風に揺れるのもまた、あまり見ない光景だった。彼女のぐるぐる縦ロールは糊で固められているのかというほどにかっちりしていて、風に揺れたことなどなかったのだ。
多方面からの衝撃にさらされたせいで、俺はすっかり身動き出来ないでいた。フリーズしていたと言ってもいい。
そんな俺の前で、彼女は紅茶をゆっくりと飲むと、再びスイーツへの挑戦を再開させた。今度の狙いはチョコレートケーキらしい。
俺に会うときは緊張しているからこそのあの態度なのだろうと推測していたのだが、今日の彼女に緊張は見られない。以前より堂々としているというかなんというか、妙な余裕さえ感じられる。
どんなリアクションをしていいのかわからず固まっていた俺をよそに、彼女はやがてカトラリーを置き、上品なしぐさで口元をぬぐうと、こちらを見ておもむろに口を開いた。
「それで殿下、お願いがあるのですが」
そもそも会話すらまともにしたことがなかったのに、いきない「お願い」ときた。もはや驚きすぎて次には何が来るだろうかと若干わくわくすらしてくる。
が、わくわくなどしている場合ではなかった。
「わたくしとの婚約を解消していただけませんか?」
先程までのスイーツを堪能していた姿とは一転、改まった表情でとんでもないことを言いだした。
「わたくし、もう疲れてしまったのです。今までなんとか表面を取り繕って参りましたが、もう限界です」
彼女は小さくため息をつく。
「今ご覧になったでしょう? これがわたくしの素の姿なのですわ。大口を開けてお菓子を食べ、このようにずけずけとものを言い。けれど、殿下の婚約者となってからは、淑女としてふるまうことを求められました。もちろんわたくしは優秀でしたので、求められるまま努力して参りました。しかし、このまま本性を隠して生きていけば、遠からずわたくしは壊れてしまうと気が付いたのです」
「………………」
「この婚約が政治的なものであることは心得ておりますが、それほど切実な理由から結ばれたものではございません。国内の政情は落ち着いておりますし、脅威となる他国もない現在、お相手はそれなりの家格のご令嬢であれば誰でもよかったはずです。わたくしに決まったのは、たまたまわたくしの魔力が大きかったからだけのこと。今ならまだ、当時婚約者候補だったご令嬢の中には婚約が決まっていない方もいらっしゃいます。その方たちだとてそれなりの魔力はお持ちです。王太子妃として不足はないはずです。どうか、殿下。わたくしとの婚約を解消してはいただけないでしょうか」
「つまりあなたは、普段ふるわない熱弁をふるうほどに、私が嫌いであると、そういうことですか?」
それは傷つくなと思いながら、努めて冷静に俺は言う。
「いえ、殿下のことが嫌いとかそういうことではございません。わたくしは向いていないのです。王太子妃というものに」
「いやいや、充分向いていると思うが? 王太子妃教育では優秀だと聞いている」
「勉学の出来と適正は違いますわ」
「適正も十分だと父も母も認めていたが?」
「猫を被るのが上手いのです。本性は今ご覧になった通りですわ」
「学園でもずっと淑女の鑑と言われてきただろう?」
「だーかーらっ! わたしはそういうのが窮屈なんだってば!!」
「……………………」
ここしばらく女性の口から発せられるのを聞いたことがないラフな物言い。普段だったら不敬と非難されても仕方ないものだ。ちらりと周囲を見回すが、護衛も侍女も少し離れたところに控えていて、こちらの会話の内容は聞こえていない様子だ。
さすがに本人もまずいと思ったのだろう。青い顔をして口元を押さえている。扇子で隠すのではなく直接手で口を押さえているのも、貴族子女の仕草としては珍しい。
どうしたものかと目の前の令嬢を見る。うつむいた彼女の髪の縦ロールが力なくほどけてきているのに気づく。まるで髪が彼女の心情を表しているようで、こんな場合ではないのに少し面白くなり、そしてそれによって俺は冷静になった。
まぁ確かに、俺はこのご令嬢が好きだったわけではない。婚約を解消するのもやぶさかではないと思うほどに。しかし今日の彼女には興味が湧く。貴族のご令嬢にあるまじきふるまいではあったが、それが好ましく見えるのは前世の記憶のせいだろうか。
心のどこかで「別に浮気じゃねーからな」と、どこかの誰かに言い訳する自分に呆れつつ、目の前で頭を下げる令嬢を見おろす。
「気にする必要はない。頭を上げてくれ」
おずおずと顔を上げて、彼女はじっと俺を見てきた。
「失礼致しました。けれどわたくしは本当に耐えられそうにないのです」
形の良い唇から漏れたのは小さなため息。
「殿下だって、わたくしのような女はお嫌いでしたよね?」
否定はできないので黙っておく。
「だったら、婚約を解消しても特に問題ありませんでしょう。わたくしは夜会や学園内など、限られた時間なら取り繕えますが、長期にわたって模範的な淑女であり続けることはできないのです。人前で素を出さないよう必死だったせいで、ついたあだ名が『氷の淑女』だの『鉄壁の淑女』だの…」
強く握りしめられた扇子から、小さくピシリと音がする。どうやらとても不本意らしい。
「婚約を解消したいというのは、侯爵も承知のことか?」
「……いえ、父には。王家との縁談をこちらから断るなど、いかに父と陛下に親交があったとて不可能というもの。父を悩ませたくはありません」婚約者殿はこくんと頷いた。正規のルートでの婚約解消は不可能だとわかっていたから俺に直接願ったわけか。俺が彼女を好きでないことは知っていたようだし、勝算はあると踏んだのだろう。
「なら、最初からダメな令嬢のふりをしておけば良かったのに」
「当家の恥になるような振る舞いは出来ません!」
「じゃあせめて、普通ぐらいにとどめておくとか。あなたがあまりに優秀なので、父も母も次の王妃にはあなたしかいないと惚れ込んでいるんだよ」
「それはその……、予想外でしたの」
「予想外?」
「ええ。王太子妃教育が予想外に面白くて。それまで受けていたつまらない淑女教育ではなく、王太子妃教育は世界への目を開かせてくれるものでしたわ! 先生方も皆様優秀で、気がつけば夢中で学んでいましたの! 婚約を解消して残念に思うことは、あの先生方に教えていただけないことと、王家の書庫を使用出来なくなることですわ!」
彼女の眼はかつて見たことがないほどキラキラと輝いていた。
つまり。王妃になるためではなく自らの知識欲のために熱心に学んでいたということか。そこに俺への気持ちはまったくないと思い知った。彼女の父親も学究肌の人間だ。似たもの親子なんだろう。
なんだか力が抜けてしまった。別に彼女のことを好きだったわけじゃないのに、どことなくフラれた気分だ。
「わかった。なんとか婚約を解消する方向へ働きかけるよ」
もう、どうでもいいやという投げやりな気分になっていた。彼女は悪い人ではない。ただ、俺への気持ちがかけらもないこと以外は。それなら、妻として一緒にいてもらうより、臣下として尽くしてもらおう。婚約が無事に解消できれば、俺は彼女に恩を売れる。そうすれば色々とこちらの要求を聞いてもらいやすくなる。彼女の父は魔塔の長だし彼女自身にも利用価値はある。なんて考える俺の腹は前世より幾分黒いらしい。
「ありがとうございます!!」
彼女は満面の笑みを浮かべて言ったあと、勢いよく頭を下げた。淑女の礼ではない、きっかり90度の礼である。
護衛や侍女も見ているのだ。慌てて頭を上げさせた。
「問題は、どういう理由で婚約解消を願うか…だな」
それは難問だった。何しろ両親は彼女を気に入ってしまっている。婚約したくないのなら、勉強方面はともかく、もう少し違う動き方をしておけば良かったのに。
それに。
「大体それなら、こういうものは持ってこない方がいいだろう?」
目の前にひらりと出したのは、先ほど受け取ったハンカチだ。
「……ですね。でも刺繍は淑女教育の中では好きな方で……。それに殿下の紋は心揺さぶる物だったので…」
王家の人間はそれぞれ個人の紋を持っていて、封蝋などにも使われる。俺の紋章は剣と稲妻だ。俺が誕生した時、空に稲妻が走ったかららしい。実は前世を思い出してから、その紋が「Z」に見えるなと思ってにやりとしたのは内緒である。
「そうだわ! 殿下は他に好きな方はいらっしゃらないのですか?」
「……………え?」
唐突な問いかけにとある面影が脳裏に浮かび、一瞬だけ動揺してしまった。それを彼女は見逃さなかった。
「まぁ!! お好きな方がいらっしゃるのね!! それなら簡単ですわ! 好きな女性が出来たから婚約解消したいとおっしゃればよろしいのよ! わたくし、応援致します。お二人にいいように社交界での情報操作はお任せください!」
どんと胸をたたく彼女は大変頼もしくて結構ではあったが、あいにく彼女が応援すると言っている相手は実際にいるわけではない。「い、いや、そんな相手はいないって!」
うっかり前世の口調が出たことに気づいたが、幸いなことに彼女は気づいていないようだ。すっかり浮かれている。
「これで解決ですわね!」
「ダメだ。俺だけの有責には出来ない」
俺の言葉を聞いて、彼女ははっとしたようだった。
「そうですわね。殿下の有責になると慰謝料が発生しますし。我が家は潤いますが、国民の血税をこんなことに使わせるわけにはいきませんものね」
こういうところ、彼女はわかっている人だった。
「その方とは婚約解消後に愛を育んでいただくとして、今はお互い非がない形での婚約解消を考えるべきですね」
「だから、そんな人はいない! それより、君はどうなんだ? 好きな人はいないのか?」
「………え……」
彼女は一瞬うろたえた。つまりはそういうことなのだろう。
「いえ、違います! 今好きな人がいるわけではなく!」
「今はいないということは、かつていたことがあったということか。私の婚約者だったためにうまくいかなかったということなら申し訳ない」
「いえ、昔って言っても本当に昔のことで! 今となっては会えるとは思えない相手なので…!」
子どもの頃の淡い恋ってやつだろうか。なかなか可愛いところがある。俺の中の彼女のイメージはこのわずかな時間でかなり書き換えられた。好感度は急上昇だ。共通の目的に向かって手を携えていける相手だという確信めいたものもある。その目的が「婚約解消」なのはなんとも言い難いものだったが。
「お互い好きな相手が出来たから…は無理なようだな。何度も言うが、私も昔好きだった人がいるだけで、今はいないからな」
彼女の目に憐憫の色が過ぎる。身分差がある相手だったのかとか考えて同情してくれていそうだ。しかし身分差ではない。時間差いや世界差なのだが。「次の手を考えましょう殿下。お互いがより良い婚約解消を実現するために!」
彼女が手が握りこぶしになっている。やる気満々のようだ。
それから俺たちは、どうやったらお互いに瑕疵のない形で婚約解消に至れるのかを考え、話し合った。
彼女が婚約者に選ばれたのはその類を見ない魔力の他、彼女の父である魔塔の長が政治に口出ししてくるようなタイプではなかったことも大きいだろう。とはいえ、彼女でなければならないわけでは無い。彼女の言う通り政情も外交関係も落ち着いている今、ある程度の家格の家の娘ならだれでもいいのだ。
「新しいお相手ですけど、ウェスト伯のご令嬢なんかどうですか? 頭もいいし人柄も間違いないですよ」
「彼女には俺の側近が惚れてるからなぁ。それに、次の相手の事よりまずはどうやって婚約を解消するかだろう?」
「確かに……」
そうして二人で色々な案を出し合った。
「こういうのはどうです?」
「それでは君の家の名前が傷つく。それより…」
「そんな噂が立ったら、殿下の次の相手が決まりませんよ?」
「では……」
婚約してこの方、ひと月に一度は茶会で会っていたが、こんなに長く顔を合わせているのも会話をするのも初めてだった。テーマこそ「婚約解消」だったが、彼女とこうやってぽんぽんと会話を交わすのは正直楽しかった。
「問題は宰相ですね」
「ああ、他のおやじ共はだまくらかせても、宰相の目だけはごまかせないからなぁ」
「宰相閣下の弱点、ご存知です?」
「弱点?」
「ええ。宰相閣下のお嬢さまはわたくしの後輩なのですけれど、彼女が言うには、宰相は無類の猫好きなんですって。それを何とか利用できないかしらと」
「うーん、婚約解消に猫好きは関係なさそうだけど、君。情報通だなぁ」
何せ議会にも諮られた婚約だ。解消するのも議会の承認がいる。
彼女は学園の令嬢たちを通して、その家の家族関係などをかなり把握していた。どこぞの伯爵は愛人に入れこんで家族をないがしろにしていたとか、どこそこの子爵家は双子の男子のどちらを後継者にするかで揉めているが本人同士は仲がいいので困っているとか。猫好きは使い道が不明だが、その他の情報は使い道があるものもある。なお、それらの相談を受けた彼女は、いろいろ手を回して解決を図ったらしい。今更ではあるが、彼女は充分に王妃たりうる力があると思うのは俺だけだろうか。この際、素をさらして王妃になっても何ら問題がない気がするのだが。
俺の内心の思いはともかく、二人で話し合った結果、何のひねりもないありきたりの作戦が無難なのではないかという話になった。
今からちょっとした小芝居をし、我々の仲が険悪になったことにする。今日はお互い腹を割って話し合いをしたが、妥協点は見いだせず、口論になった…という体を取れば、今回の茶会でいつになく長い間話をしていたのもそのためだと思わせられるだろう。俺たちは元々仲のいい間柄では無かったので、正式に仲たがいをしても誰も疑いはしない。
その後、彼女は俺との婚約を厭う余りに体を壊す。なんなら療養のために領地へ行ってもらってもいい。俺は俺ではっきり口にはしないまでも、彼女を生涯の伴侶とするのは不安であり不本意でもあることを周囲に周知させる。
彼女は自分の持つ社交界の伝手を使って情報を操作し、俺は俺で両親や親族共になにかにつけ働きかける。
そうして、周囲が俺たちに結婚は無理だと思ったらこちらのものだ。その空気に乗っかってじじいどもを説得する。その際、一番の壁として立ちはだかるのは宰相だが、そちらは宰相令嬢にも動いてもらうと彼女は受けあった。
いい作戦とは言い難いが、お互いに瑕疵のない形で婚約を解消するには、他に方法は思いつかなかった。
そんなわけで。
「じゃあ、いくぞ。言っておくけど、今から言うことは本心じゃないからな」
「ええ。わかってるわ。私の方も同じだからへこまないでね」
「へこむわけないだろ」
いつの間にか、彼女とは気安い口をきくようになっていた。彼女との会話のテンポが心地いい。かつての誰かを思い出すような……。
「……ひどいですわ、殿下っ!!」
俺が少々ぼんやりしている間に彼女はお芝居をスタートさせた。俺もついていかなければ。
「なにがひどいんだ! 本当のことだろうが!」
「わたくしは殿下のためにっ!!」
「それなら少しは私に寄り添う態度を見せたらどうだ!私は君に心を開いてもらえるよう努力してきたつもりだ!」
あ、ちょっと本音が漏れた。
「わたくしだって、殿下のために王太子妃教育を頑張ってきたのですわ! 陛下にも王妃様にもそれは認めていただいております!」
「父上と母上をうまく篭絡したものだ! 君が欲しいのは王太子妃の座だけだからな!」
「そんなことは……っっ!」
うん。快調快調。だんだん声を大きくし、ヒートアップしていくように見せる。
「あるだろう? 私にはかけらほどの関心もなかったこと、気づいていないとでも思っているのか!?」
「それを言うなら、殿下も最初からわたくしのことを疎ましくお思いでしたでしょう!? 嘘くさい笑顔で接していただいても本音は隠せておりませんでしたわ!」
ところどころチクチクくるのは、彼女の方も本音が漏れだしているからか。おかげで口論に信ぴょう性が増している気がする。なので今回は流すことにしよう。
視界の隅で、俺たちの様子に気づいた侍女と護衛が慌ててこちらにやってくるのが見えた。
その時だった。
「……………え………?」
俺たち二人の間に、ふよふよと何かが漂ってきた。
「……水魔法?」 彼女が小さくつぶやく。そう、それは水魔法で作った水の塊だった。野球のボールぐらいの大きさのそれは、俺たちのちょうど真ん中の空間でぴたりと止まると、次の瞬間勢いよくパンっと弾けた。彼女を庇う暇もなく、大きさの割に大量の水がかなりな勢いであたりにまき散らされる。軽い爆発ともいえるほどの勢いで飛び散った水は、目に当たりでもしたら危険なほどだった。薄い紙など貫通してしまうだろう。実際、水がばしばしと勢いよく当たった俺はかなり痛かった。
もしや曲者か!?と一瞬思ったものの、その匂いや魔力の性質から危険はないと判断し、水の塊が漂ってきた方向…侍女と護衛のいない方角…を見やったのだが。思わずガックリと肩を落とす。
「駄目よ、お兄様! 喧嘩なんかしては駄目!」
俺の愛する弟妹が植木の間から飛び出してきて、俺たちの間に立ちはだかった。体のあちこちに葉っぱがついている。どこを通ってここまで来たんだか。
「そうだよ、二人とも! 少し頭を冷やした方がいいんだ!」
だからと言って魔法で作った水をぶっかけることはないと思う。二人が俺たちの会話をどこから聞いていたかが心配だったが、この様子からして口論のあたりからだろう。二人とも密談を聞いて黙っていられる性格をしていない。
二人をどう言いくるめようかと思っていたら。
「失礼いたします」
「え? 嫌よ! お兄様を止めなくちゃ!」 セバスチャンだった。彼は暴れる二人を軽々と両脇に抱えると、俺と婚約者殿に一礼してすたすたと歩き去っていく。弟妹の抗議の声が遠ざかる。
セバスチャン。さすが優秀な奴。しかし彼は今までどこにいて、俺たちの会話をどこから聞いていたのだろう。嫌な予感はするものの、今は弟妹たちに言い訳をせずに済んだことを喜んでおこうと思う。
と。異様な視線を感じて婚約者殿を見ると、彼女は驚愕の形相でこちらを凝視していた。
「……?」
「殿下、これを…」
侍女が俺と彼女にタオルを渡してくれる。俺は盛大に水を被ってしまったが、彼女にはあまりかかっていなかったのは幸いだった。と言っても多少の水はかかったのだろう、ぐるぐる縦ロールは力なくほどけてしまっている。
「お嬢様、お着替えを……」
当然のことを申し出た侍女に対し、妙にきっぱりと彼女が言った。
「いえ、待って。しばらくわたくしと殿下、ふたりきりにしていただけるかしら」
王宮の侍女にも有無を言わせぬ口調で命じる。そのただならぬ様子に、残っていた侍女や護衛たちも、最初の立ち位置に戻っていった。
残されたのは俺と彼女、二人きりである。
「……どうしたんだ?」
これまでの彼女は冷たい印象。今日ここまでの彼女は豪胆な印象。今の彼女はそのどちらとも違う。
彼女は俺をじっと見つめる。柔らかな花の色で染められた唇がゆっくりと開いて、一つの言葉を紡ぎ出した。語尾をあげたその言葉は、俺に問いかけているようだ。
あまりに突拍子のない彼女の言葉に、俺は聞き返すことすら思いつかず、反射的に答えてしまっていた。だってそれはもう、俺の魂の奥底につながっているような言葉だったから。
「……マジン?」
「ゴー」
「パイルダー?」
「オン」
「スクランダー?」
「クロス」
それはこの世界では決して聞くことがないはずの言葉。それを口にできる人間は、彼女はつまり……。
「……………………」
「……………………」
二人してたっぷり1分は見つめ合った後。
「甲児?」
「さやか?」
そうして俺たちは、前世ぶりの再会を果たした。
「……あのさ……」
おずおずと言う俺に、発光女神はほほ笑んだ。なんだろう、私は全部わかってますよー的な笑みに見えるのは俺の気のせいだろうか。
『思いつきましたか?』
「あー、別にその、今までと同じ立ち位置でなくてもいいんだけど……」
『はいはい』
「あいつを…、あいつと…次の人生でもあいつと会いたい…とかじゃダメか?」
『あいつ、とは?』
「あいつはあいつだよ、あの、つまり、さやかだよっっ!」
なんだこの気恥ずかしさは! そしてなんだよ、俺は金持ちにならなくても、権力持たなくても、イケメンになることよりもあいつにもう一度会いたいって思ってるとは。不覚だ! 何に対して不覚なのかはわからないけれども。
発光女神はにやにやと笑っている。発光しててもわかるぐらいのにやにや笑いってなんだ!
『あー、やっと言いましたね。最初から言っておけば良かったのに』
「最初から?」
『あなたは最初から、奥様にもう一度会いたいって思ってたじゃないですか。だから急いであっちへ行こうとしてたんでしょう?』
「………わかってたんなら、なんでいちいち訊くんだよ」
『ちゃんと自覚していただかないと、望みは叶えられませんからね』
発光女神は当然でしょとでも言いたげな顔をしている。
「だけど…、あの…、俺の望みはそれだけど、あいつが嫌だったら別にその……」
次の人生まで俺の勝手であいつを俺につきあわせることもないとも思うのだ。俺にとっては褒美でも彼女にとってはそうじゃないかもしれないじゃないか。
女神は小さくため息をついたようだった。
『あなた、変なところで自信がないんですね。彼女も思ってましたよ、生まれ変わっても出来たらまたあなたに会いたいって』
それを聞いた俺は年甲斐もなく胸がいっぱいになってしまった。そうか、あいつもそう思ってくれていたのか。俺だけじゃなかったんだ…。
『彼女も世界を救ってくれた勇者の一人ですからね、彼女が嫌がっているならあなたの望みでも叶えられないところでした』
そこで女神はいったん言葉を切った。そしてにやりと笑う。
『相思相愛ですね』
何か言い返したかったけど、何か言ったら倍以上になって返ってくるような気がして口をつぐむ。
『では、あなたと彼女は同じ世界、同じ時代に生まれるようにしましょう。その世界で、あなたはきっとまた彼女と巡り合います』
「………ありがとう」
思わず素直な言葉が出た。
『次の世界でも、あなたと彼女は親子でも兄妹でもなく 同じ年の男女として出会うでしょう。二人ともに特典、つけておきますね』
「特典?」
『ええ。あなたたちにはまた少し働いてもらわなくてはならなくて』
「働く?」
『ええ。そのために私があなたの担当になったんですよ』
「どういうことだ!?」
なんだか嫌な予感がする。
『あなた、本当はこれまでと同じ世界に生まれ変わる予定だったんです。ですが、実はうちの世界、今結構困ってましてね。だから優秀で腕のあるあなたをそちらの神から借り受けたっていうか』発光女神がウィンクした。
『では、皆さんで、この世界も救ってくださいね』
「なんだってーーーーーー!!」
叫んだ瞬間、足元に出来た穴に吸い込まれた。穴もまた真っ白で何も見えない。白い白い世界を俺はどこまでもどこまでも落ちていく。
「おんぎゃあおんぎゃあ」
「おめでとうございます!」
どこかで赤子の声がする。それを遠くに聞きながら、俺の意識は薄れて消えていった。
そしてそれから。
もちろん俺と彼女の婚約は解消にならなかった。
いいのかと訊いた俺に、「王妃になる自信はやっぱりないけど、甲児くんが17年間王子様をやれたのなら私でもなんとかなる気がする」と彼女は笑った。「二人でいるときは猫を脱げるしね」とも。
おかげでこれ以降、王太子殿下とその婚約者はたまに盛大な喧嘩をするけれども仲睦まじいと言われているようだ。
なお、彼女の言っていた「昔好きだったけどもう会えない相手」とは俺のことだったらしい。俺の方ももちろんさやかのことを言っていたわけで、それはちゃんと白状しておいた。17年の間にそういう相手がいたのだと誤解されるのは不本意だったので。かなり気恥ずかしかったが、彼女の盛大に照れた顔を見られたので良しとしよう。
愛する弟妹は、彼女と俺との仲が良くないことを常日頃から心配していたのだそうだ。水をかけたことを謝りに来たとき、俺と彼女の空気が変わったことを察して嬉しそうにしていた。
色々気づいていたらしいセバスチャンは何も言うことなく、そっと戦いから身を引いた。何のかというと俺の髪をセットするという戦いからである。あの時水を被った俺の髪は、もうセバスチャンの腕をもってしてもどうしようもないほどに以前のライオンヘアになってしまったのだ。
なぜ前世の記憶と髪がリンクしているのか納得できずにいた俺の肩をぽんぽんと叩いて、彼女は言った。「私もよ」と。彼女のぐるぐる縦ロールも、前世の記憶が蘇ってからどんどん巻きが緩やかになっていき、侍女が首をひねっていたそうだ。今や完全なさらさらストレートになった彼女の髪は、ヘアアレンジのし甲斐があると侍女に好評なのだとか。俺とは真逆である。
この点については、一度発光女神を問い詰めたいと思う。
そんなこんなで色々あって、さらにこの後、俺は転生した先でも機械獣ならぬ魔物と戦うことになるのだが、この時はまだ「まさかな」と思っていた。
発光女神の言ったことは本当だったとわかったのは、この後何年か後のことだった。
世界に魔がはびこり、どこぞのファンタジーよろしく、俺は勇者として仲間とともに魔王を倒す旅に出ることになって。その仲間にはもちろん婚約者がいたわけだが、その他に、体格がよく眉の太い剣士や、少し浅黒い肌のエキゾチックな美女の魔法使いもいたわけだ。相対した魔王の顔は、どこかの誰かにちょっとばかり似ていたりもして。
彼らには前世の記憶はなかったが、どーにもこーにも気になって、今度天寿を全うしたらこの件についてもあの発光女神を問い詰めて確認することに決めた。
もちろん、その戦いには勝利した。いくら女神の祝福とてんこ盛りのスキルがあってもなかなかつらい戦いだった。今度あの女神にあったら、一発二発ぶっ飛ばしたいと思うほどには。
それでもまぁ、転生した俺の人生は、それはそれで面白いものになった。楽しいことを一緒に楽しんで、つらい時には寄り添ってくれくれる相手が、今回の人生でもいたものだから。
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そんなわけで終わりです。頭沸いててすみません。多分、「転生したら侯爵令嬢だった件」も書くと思います(笑)。