月の人魚

作:成也

(3)

 それからも私は何回か隙をみて城を抜け出して甲児君に会いに行ったわ。三大臣達に頼り、お父様に背く事は心苦しかったけれど、もう自分の心に嘘はつけなかった。
 甲児君もいつも、あの浜辺で待っていてくれた。
 ただ、彼と会う度に“壁”を嫌がおうにも感じてしまう。
 それは、私が人間でない事。
 私が人間でさえあったら、ずっと彼のそばにいられるのに…。
 人間になれたら、どんなにいいだろう。
 以前から胸に抱いていた願望が、日増しに大きくなっていく。
 どうすれば…人間になれるの?
「あ、もしかしたら…」
 一つの案がひらめく。
 でも、それを実行するには自分の全てを捨てなければならないのだ。
 平和な海の中での生活、大切な父、三大臣や仲間達。
 そして、それは下手をすれば自分の命でさえも。
 私は唇をかみしめた。
 その運命の日。
 いつも通り甲児君との約束の浜辺に行くと、彼は既に来ていた。
 どんなに悩んでいても、やはり甲児君の顔を見ると全てが忘れられる。
“ねぇ、甲児君、私がどんなに貴方の事想っているかわかってるの?”
 彼の顔を見ながら、ついそんな言葉を自分の中でつぶやいてしまう。
(やはり、私このまま人間になってしまいたい)
 ふと、そんな事を再び考え出した時、信じられない言葉に私自身の動きが止まる。今、なんて…言ったの、甲児君?
“だから、その…もう会うのをやめようと思うんだ。と言うより、会えないんだ”
「どうして、そんな事急に言いだすの? 甲児君」
“旅に…そう、これから自由な旅に出る事になったんだ。だから、もう君とは会えない”
 私は衝撃に打ちのめされる。
「嘘よ、何かあったの? 話してよ、甲児君…甲児君」
“君との事は忘れない。じゃ、もう俺行かなきゃ”
 伏し目がちに彼は、そのまま立ち去ろうとする。
「甲児君…」
 私はそれを言うだけが精一杯だった。涙があふれてきて、貴方がよく見えない。
“幸せに! 人魚のお姫様。所詮は俺達、人間と人魚だったんだよ”
 甲児君からの最後の心の響きがして、彼は走って行く。
 胸のペンダントを握りしめながら…。
 胸を貫く一言が残った。“人間と人魚”
 甲児君もそう思っていたの? やはり、この壁は越えられないって事なの?
 海の中で私は泣いた。
 全てが悲しみ色に覆い尽くされたよう。
 甲児君、私達もう会えないの? 会ってはいけないの?
 どうして、こんなに涙が出てくるの…さやか?
 なぜ、一人の人間の為にこうも苦しむの?
 所詮、あんなに勝手な人だったんじゃないの。何を今更、泣く事があるっていうの。私には戻れる所があるのだし…そうよ、帰るのよ、自分を待つ人々のいる所へ。
 一度は城の方へ戻ろうと決心して泳ぎだしたが、途中から泳ぐ方向は変わっていた。行くのよ、今こそ…あしゅらの魔女の元へ。

 様々な妖力を持つとされるあしゅらの魔女の住む場所は、海の民からは〈魔の海域〉と呼ばれ、一度そこへ入った者は二度と戻って来られない恐ろしい場所だとも聞いている。
 だけど今の私には、そこへ行くしか方法がなかった。
 そう、人間になる為には…。
 幾つもの危険な海域を抜け、やっとたどり着くとそこには魚の骨のみが散らばっている不気味な光景が広がっていた。
 同じ海に住む者とはいえ、人魚の国とは全く違う暗黒な場所だった。
 私は決心して突き進む。
 やがて私の前にその姿を現す、あしゅらの魔女。
 鋭い目が、心の奥まで見透かすようであった。
 意に反してはいなかった。あしゅらの魔女は既に、私が人間になりたい事も今までの出来事も全て知り尽くしていた。
 そして、私の前に小ビンに入った液体の薬が差し出された。
 これを飲めば、確実に人間になれるのだ。
 はやる私にあしゅらの魔女が念を押す。
 契約書への血染めのサイン。私自身ここへサインをする事によって、王族としての身分を捨て、人魚としての永劫的な生命をも魔女に差し出し、人間の短い生命を選択するという事。
 私は自分の血で誓いのサインを行う。
 その儀式は長く、終わる頃には大量の血が抜き取られた事で倒れる寸前であったが、なんとか薬を飲み込んだ。
 魔女の高笑いの中、わずかな希望に望みを託して。





 ふと私が目を覚ました時は、見知らぬ家の中だった。
「ここは?」
 辺りを見回すが、あしゅらの魔女の薬を飲んだ直後からの記憶がなかった。
 私は一体どうやってここに来たのだろうか。
 その時、目覚めた私に気がついて一人の女性がのぞきこむ。
 彼女はみさとと名乗る。
 海に停泊している船に店の食料を納品しての帰りに、浜辺に打ち上げられていた私を発見したらしい。素の私を見て、とても驚いたという。
 何か事情があると察してか、彼女はあまり深く理由を追求しようとはしなかった。
 私にとっても、それはとてもありがたい事だった。
 第一どこから来たと尋ねられても、まさか“海”からと言っても信用してもらえないだろうし、だからといって優しくしてくれる彼女に嘘をつくのも気が引けてしまう。
 彼女は、打ち上げられていた私のそばに落ちていたという短剣を差し出す。
 私はその短剣を見て驚く。
「これは、まさか…」
 と、短剣を握りしめる。
 みさとさんは若いけれど、一人で仕事をきりもりしているらしく、快活だった。人間の国に来て、こういう女性に会えるなんて、神様に感謝したかった。
 でも待って! あの船に出入りしているっていう事は…。
 こうしてはいられない。私は慌てて、彼女に船へ連れて行ってくれるように頼んでみる。見ず知らずの私の頼みなんて、多分引き受けてもらえないだろうと思っていたが、彼女はこころよく聞き入れてくれた。
 みさとさんが操る馬車に乗って、甲児君のいる船に近づいていくのにつれ私の胸の鼓動は、不安と期待ではり裂けそうだった。
 もうすぐ会える。全てはまたそこから始まる。今度は人間として…。
 私はもう一度甲児君に会う事で、賭けてみようと思った。
「貴方の願い、叶うといいわね」
 みさとさんは、この言葉を私に贈ってくれた。
 送って来てくれたみさとさんに一礼して、私は教えてもらった甲児君の部屋を目指して、走り出した。
 生まれたての足はまだ重く引きつってしまって痛みも伴うが、それでも走らずにはいられなかった。
 そして、扉の向こうにいた、紛れもない愛しい姿。
 彼以外、何も目に映らなかった。
 しかし…やはり、受け入れてはもらえなかった。
 その頑なまでの闇の部分が甲児の心を支配してしまっていて、自分の声はもう届かないのだろうか?





 激しく打ち寄せる波の音に、ハっと回想の念から我に返るさやか。
 彼方の船を見つめながら、さやかはつぶやく。
「甲児君はもう本当にこのまま、旅に出て行ってしまうかもしれないのね」
 さやかは、短剣を取り出す。
「お父様、黙ったまま来てしまってごめんなさい。そして…ありがとう。海(ふるさと)を捨てた私なのに、一族の秘剣を託して下さって。でも、恋に落ちた者は月なの。愛する人を求めて、心は満ちては欠けて…の繰り返し。淡い光の中で、希望だけを抱き続ける。たとえそれが、見果てぬ夢であったとしても…。それでも止まらない…涙(あい)が止まらない…。この想い無しには、もう生きられはしない」
 人間となったさやかの耳にはもう父の、海の声も何も聞こえはしなかった。
 波だけが、さやかの足に打ち寄せる。
 これから一体、何を信じたら…。
 二つに一つの道。ならば、いっそここで掟通りに自分を…。
 短剣を持ち直し自分の方へ刃先を向けた矢先、顔をあげたさやかの瞳に突如映ったもの…炎が…火事? …大変、船が、あの船が…。
 燃えている−−。甲児君−−−−。
 短剣を握りしめて、さやかは走り出す。

 

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