「………ねぇ、ジュン、どーしても行かなきゃなんない?」 「当たり前でしょ。大体もう時間もないのよ?」 「……わかってるけど……」 さやかは一つため息をついて、眼下に広がる光景をうんざりと眺めた。 そこでは大勢の人間がおのれの目標目指してひしめき合っている。 自分に果してあの中に加われるのだろうかと、さやかは徐々に迫ってくる光景を睨み付けながら早くも怖じ気づいていた。 ここは某デパートの地下食料品売り場である。正確に言えば、地下食料品売り場へ向かって動いている下りのエスカレーターにさやかとジュンは立っているのだ。 時はまさに2月13日午後6時過ぎ、女性にとっても男性にとってもドキドキの日、バレンタインデーの前日である。 しかも退社時間を過ぎているので、本命チョコだの義理チョコだのを買う目的の女性が最後のチャンスとばかりにチョコレート売り場に群がっている。何しろ時間がないから買う方は必死である。チョコを渡すときには決して見せないようなもの凄まじい形相だ。 「あたし、自分で作る…」 くるりと反対を向いてエスカレーターを逆走しそうなそぶりを見せたさやかのコートの裾をジュンが引っ張る。 「……往生際が悪いわよ。さっきまで研究所に缶詰で、今からまた残業で、明日も朝から会議だっていうのに、どこに作ってる時間があるのよ!?」 ジュンに首根っこを掴まれたまま、無情にもエスカレーターは動きつづけ、さやかは戦場に到着した。 「す…すごい……」 チョコレート売り場の混雑は、エスカレーターの上から予想した通りのとんでもなさで、さやかはそこへ一歩足を踏み入れるなり、燃える女性たちによって、あっちに流されこっちに押しやられ、品定めも満足にできないまま右往左往させられるばかりだった。 これが、自分の好きな店のバーゲンともなれば自ずから心構えが違うのだろうが、今日のさやかはただでさえ乗り気ではないところへもってきて、残業続きの疲れが溜まっている。とてもではないが、気合の入った大勢の女性たちに適うべくもなかった。 結局、人込みの中でジュンともはぐれて、いつの間にかさやかは洋菓子コーナーから、和菓子コーナーへと流されていた。いっそそこに売っていた「バレンタイン煎餅」でも買おうかなどと思案している所へ、デパートの紙袋を持ったジュンが人込みを抜けてやってきた。 「どこ行っちゃったのかと思ったわ」 「人波に揉まれてこんなとこまで流されたの」 頬を膨らませ、しかめっつらでさやかが答えると、ジュンはぷっと吹き出した。それを見てさやかが眉を逆立てる。 「大体ね!! バレンタインにチョコレートなんてアメリカじゃやってないのよ!? そんな変なことしてんの日本だけよ!? そんなのねぇ、お菓子会社の陰謀よ、計略よ、策略よっっ!! そんなのに乗っかって騒ぐなんて、もう、馬鹿馬鹿しいったらっっっっ!!」 叫び終わったさやかははあはあと肩で息をしていて、いかに煮詰まっていたかが良くわかり、ジュンは一つ大きなため息をつく。 「………なによ!?」 「叫んで気が済んだ?」 「…………………………ちょっとはね」 さやかは口のなかでもごもごと返事をする。 「なら、帰りましょうか?」 「え、でもチョコレートは……」 さやかが追うと、先に立って歩いていたジュンが振り返った。 「これ」 よく見るとジュンは袋を二つ持っている。 「え……それ………」 「さやかが昔から好きだって言ってたメーカーの奴。余分に買ってきたんだけど、バレンタインはお菓子会社の陰謀だからさやかはいらないんだっけ?」 ちょっと意地悪に言われて、さやかは顔の前で手を合わせた。 「……ごめん……。ありがと、ジュン」 「ちゃんと甲児くんに渡すって約束する? さやかのことだから、こーゆーの照れちゃって苦手でしょ? 渡すって約束するならあげる」 さすがにジュンはさやかがあの女性たちに紛れてチョコを買うことができないだろうということを予想していたらしい。 「はい。約束します」 片手を挙げて宣誓するさやかに小さく笑って、ジュンは持っていた袋を渡してくれた。 そんな風に大変だったにもかかわらず。 「甲児くん、帰って来ないじゃないのよ!! さやかは、研究所内の弓家の居間で、壁にかかった時計を睨んでいた。 本日は2月14日夜11時過ぎ。もうすぐバレンタインデーは終わりである。 目の前には大きな袋に入った大量のチョコレート。これはどうやら甲児が出掛ける前に所内の女性から回収したものを置きっぱなしにしていったらしい。 本日の甲児は、午後から出張だった。ちなみにさやかは朝から出張で先程帰ってきたばかりである。 本当は限りなく気恥ずかしいのであるが、ジュンにわざわざ買ってきてもらったのだし、約束もさせられたし、さやかは一応ちゃんと甲児にチョコレートを渡すべくここでずっと待っているのである。 しかし、甲児は一向に帰ってこない。 今頃まで仕事ということはあり得ない。この研究所にいる分には、こんな時間まで残業していることも度々だが、今日はよそさまの研究所へ出張しているのだ。しかも、さほど時間のかかる仕事ではないと、甲児の部署のトップであるせわし博士から聞き出してもいる。 ということは、仕事のあと、飲みに行ったりしているのかもしれない。あちらでも甲児は結構人気があるそうだから、その席には女性もいたりして……いや、もしかしたら、女性に誘われて遊びに行っているのかもしれない。よりによってバレンタインデーに…だ。 さやかは目の前にある色とりどりにラッピングされたチョコレートの山を睨んだ。 「なんかこれ、見てるとムカつく…」 テーブルの上にあったチョコ入りの袋を自分の目に映らない場所に移動させる。甲児が自分以外の人間から貰ったチョコレートなど、見ていて楽しいはずもない。 さやかが日本に帰ってきたのは去年の秋のことだった。甲児も今年の初めに帰国して、今は一時的に二人ともが光子力研究所で働いている。 二人が揃って研究所に帰ってくるのは本当に久しぶりのことだったのだが、それぞれ違う部署で働いている上、どちらの仕事もとんでもなく忙しいためにまともに話をすることもできない。同じ研究所内の弓家で暮らしているというのに、朝「おはよう」の挨拶をしたきりで一日の会話がおしまいということだってある。毎日のように残業だし、同じ日に休みは取れないし、せっかく一緒の研究所にいるというのに、甲児とさやかの二人は、全然まったく二人きりで過ごす機会がないのである。 そういった仕事関係の大変さに加えて、もう一つ問題があった。 見目がそこそこいい上に、良く言えば気さく、悪く言えば軽い性格で付き合いのいい甲児は、女性所員にすぐに気にいられ、結構もてている。一応甲児はこの若さで研究者としてそこそこの評価を受けているから、好条件の物件と言えるだろう。それでも、二人の昔を知っている所員なら、甲児にもさやかにも変なちょっかいをかけないだけの知恵と分別があるのだが、最近入ってきた若い所員はそうもいかない。二人の関係も二人の間のゴタゴタに巻き込まれる恐ろしさも知らないので、遠慮なくかつ果敢に甲児にモーションをかけてくるのだ。 それを横目で見ているのは、どうにもこうにもいい気分じゃない。 ゆっくり話はできないものの、時々廊下やどこかの部屋で、甲児とすれ違ったり顔を合わせる程度のことはある。そんなときに、女の子相手にやにさがっている甲児を見るのははっきり言ってムカつくのだ。 しかし、ムカついたからと言って、さやかとしてはどうしようもない。良く考えれば、別に甲児と約束を交わしたわけでもなんでもないのだ。 離れていた間は電話とかFAXとかメールなどでお互いに連絡を絶やさなかったから、会えなくても甲児とどこかで繋がっているような気がしていた。それなのに、直接会えるようになったらこの有り様だ。 さやかとしては甲児のことが好きだ。ずっと甲児の側にいたいと思う。結婚相手は甲児しかいないと思ってもいる。だが、元来照れ屋の甲児と、そういう向きの話を直接顔を合わせた状態でしたことはなかった気がする。 多分甲児も自分のことが好きなんだろうと思ってはいる。少なくとも今まではそう思っていた。でも。 ここにきてどうにも足場が怪しくなってきた気がする。確かだと思っていたことが急にあやふやに思えてくる。あやふやだから、女の子にでれでれしている甲児本人に堂々とムカつくと言いたくてもなんだか言えない。言えない自分の立場が嫌だ。 そんなこんなを考えていたら段々腹が立ってきて、そういうことを休みの日に(例によってその日甲児は出勤だった)ジュンにぶつぶつとこぼしていたら、こういうことになってしまったのだ。 つまり。 「せっかくもうすぐバレンタインなんだから、さやかの方からはっりさせなさいよ」 ジュンはそう言ったのである。 その時いささか酒の入っていたさやかも、それはとてもいい考えだと同意した。後悔したのは昨日、「今から私も鉄也にあげるチョコを買いに行くから、一緒に行きましょう」というジュンからの電話を貰ったときだった。はっきり言ってバレンタインにチョコを贈るなんて、恥ずかしい。照れ屋なのは甲児だけではないのだ。 「あーあ、せっかく人が覚悟を決めて待ってるっていうのに。何してるのよぉ〜〜〜っ!!」 時計の針はゆっくりと、だが無情なほど正確に動いていく。 あと10分、あと5分…。 時計の針が一番上で重なったとき、さやかは勢いよく立ち上がった。 「あンの馬鹿っっ!!」 バレンタインデーは終わってしまったのだ。 つづく |