私はとても活動的な子供だった。領地では木に登り、馬や竜と戯れ、近所の子どもたちと泥だらけになって遊ぶような。領地の子供たちは誰も私を侯爵令嬢だと思っていなかったし、なんなら女の子だと思っていなかったかもしれない。
けれどそんな私を誰も叱ったりはしなかった。それというのも、私は生まれた頃、一年生きられないかもしれないとすら言われたほどの虚弱体質だったからだ。記憶には残っていないが、乳母や使用人から聞いたところでは、乳もなかなか飲まずに痩せ細り、少し風に当たるだけで熱を出し、体中に原因不明の湿疹が出来ている…そんな赤ん坊で、元々体の弱かった母は、丈夫に産めなかった自分を随分責めていたらしい。
しかし、両親や医師、使用人たちの努力と献身と愛情により、私は何とか一歳の誕生日を迎えることが出来、二歳になる頃には標準より少し体が弱いぐらいになり、三歳になった時は庭に出て走り回っても熱を出すこともなくなっていた。
そんな私だったから、両親も使用人たちも、私がよほど危険なことをしない限り、黙って見守ってくれていた。私が元気にしているだけで嬉しい、そんな心境だったようだ。
三歳以降は大きな病気も怪我もすることなく、私は領地でのびのびと育った。のびのびと育ちすぎて、ちょっとこれは侯爵令嬢としてまずいんじゃないか…と周りの人間が気づき始めた頃、とんでもない問題が持ち上がった。私が王太子の婚約者に内定したというのだ。
その前年、私は初めて王都に行き、大神殿で魔力測定をしていた。それはその年の子どもが必ず受けなければならない儀式で、貴族の子供はよほどの理由がない限り、王都にある大神殿で魔力測定を行うことになっていた。
そこで私には並外れた魔力量があることがわかったのである。魔力の性質はめったに発現しない聖属性、おまけに水と風の属性も持っていることが判明した。普通は一つの属性しか持たないものなので、聖属性含めた3属性となるとレア中のレアなのだ。
その時点で、王太子殿下の婚約者候補として私の名前が挙がったらしいが、当時私は侯爵家の唯一の後継者だったので、その話はお流れになった。
しかし状況は変わる。第二子は望めないだろうといわれていた母が、無事に弟を生んだのだ。大声で泣き、乳をよく飲み、ふくふくとした弟は私とは違い健康優良児だ。それにより、侯爵家としても嫡男が出来たのだから娘を王家に嫁がせても問題あるまいとお偉方に判断されてしまったようだ。
両親は私の性格を知っていたので大変困惑した。父は何とか辞退しようとしたのだが、あらゆる方面から考えて王太子妃を出すならわが侯爵家が最も無難な家門であると考えた宰相によって、すべての外堀は埋められていた。
父と国王は学園時代の友人同士で今でも気の置けない仲だったが、王太子の婚約者の選定は議会にも諮られて決まることなので、国王陛下の一存でその決定を左右することはできない。父は魔道塔で高い地位にいたが、この職は直接政治に関わるポジションではないため、公爵家出身の宰相に逆らうことはできなかった。
かくして、私は不本意ながらも王太子の婚約者に内定してしまったのである。
それからは大変な日々だった。侯爵家の子女として最低限のマナーは身に着けていたが、基本私は野生児だ。そこからまず変えていかなければならない。
父の必死の説得により、王太子との対面は一年後ということで了承を得た。その一年の間に、私はそれなりの淑女にならなければならなかったのである。
領地に戻り家庭教師や母との淑女教育の日々。マナーに刺繍に詩作に詩の暗唱、楽器の演奏、ダンス、淑女にふさわしい会話術などなど。唯一の慰めは愛竜と遊ぶ時間だった。家庭教師に食い下がり、それだけは許してもらったのだ。
実のところ、私がゴネもせずに淑女教育を受け入れたのにはわけがある。魔力測定で大神殿に行った時、その場にいた貴族の陰口を聞いたからだ。彼らは私を見て「山猿」と嗤い、両親のことは「娘の教育も出来ない無能」と囁きあっていた。今考えれば、初めて見た王都の街並みや大神殿の威容に驚いてはしゃいでいた私も、そんな私を叱らずただ微笑ましく見ていただけの両親も悪かったのだと思う。
領地で一生を過ごすなら山猿でもよかった。けれど王都に行くなら、二度と両親をあんな風に言われたくないとあの時の私は思ったのだ。
そして私は頑張った。慣れないことに四苦八苦しながらも一年で家庭教師から及第点をもらうまでになった。家庭教師の女性は最後の日に私に言った。「その猫、大事にしてくださいね」と。厳しくも良い人だった彼女には、私の本性が変わっていないことなどお見通しだったのだ。
一年後、私は王都に居を移すことになった。淑女教育の次は王城での王太子妃教育が始まるのだ。
その前に、王太子殿下との顔合わせがあった。将来夫となる人物に興味がないわけではなかったが、その日の私はとても腹が立っていた。なぜならこの日の朝、初めて、愛竜を王都には連れてこられないと知ったからだ。
王都での竜の飼育は制限されている。王城以外で飼育することを認められていない。それは常識だったので父も母も敢えて私には伝えていなかったのだ。しかし私は知らなかった。一緒に来なかっただけで、あとから来るのだと思い込んでいたのだ。
そんなわけで。王太子殿下との顔合わせの日の私はたいそう不機嫌だった。どうして王都では竜と一緒に暮らせないのか。こんないい天気の日は領地で竜と遊んでいたのに、なんでこんなひらひらしたドレスを着てかたくるしいお茶会に出ていなければならないのか。そもそもこの王子が悪いのだ。私なんかを婚約者にしようとするから。
完全なやつあたりである。
しかしこれがやつあたりだという自覚はその頃の私にはなかった。なにしろ子供だったので。そしてその気分のまま、初めて会ったきらきらしい王子様に対応してしまい、それが私と殿下のすれ違いの始まりになった。
その後も、私と殿下は仲良くなるタイミングをことごとく外しまくった。初対面の後、一応私も悪いと思い、お詫びのつもりでハンカチに殿下の紋を刺繍してプレゼントしてみたのだが、殿下はそれを私自身の手ではないと思ったようで、実に雑な対応をしてくれた。自慢じゃないが、刺繍の腕だけはあの厳しい家庭教師からも母からも絶賛された私なのだ。確かに子供が刺したとは思えない出来だったかもしれないが、疑われると腹が立つ。意地になって毎年同じ紋のハンカチを贈り続けた私も多分いけなかったんだろう。私と殿下の距離は縮まるどころか遠くなっていった。
けれど。この殿下、いちいち私の気持ちを逆なでするのだ。王太子妃教育が始まって、私はなかなか領地に帰れなくなり愛竜と会えないというのに、自分が竜に乗れるようになったからと言って、私にそれを見せるのだ。嬉しそうに自慢げに!
こっちはもっと前から乗れたわ!なのにあなたの婚約者にさせられたせいで可愛い竜に会うことも出来なくなったのよ!そう言ってやりたかった。さすがにこの頃には不敬という言葉を知っていたので、黙ってさっさと帰ってやるだけにしたが。
そして。お茶会のたびに美味しそうなスイーツを並べてくるのにも腹が立った。私は厳しい食事制限をしていたのだ。十分に栄養を取れるようきちんとした食事は出されていたが、それ以外の甘いものなどの間食は控えていた。何しろ、採寸してから実際に着用するまでの間にドレスのサイズが変わっていたら大ごとなのだ。ドレスのお直しってどれだけ大変かこの殿下はわかってるんだろうか? 体型を変えるわけにはいかないのよ! 王妃さまの所で出される菓子は、その辺のことを考えて、太りにくい素材を使ったあっさりデザートだから食べられるけど! 食べたいのに食べられないこの苦痛! だからと言ってそんなことを主張するのははしたないと言われるし、どうして食べないのかいい加減察してくれないかしら! そう、何度叫びそうになったことか。
そんなこんなで殿下との月に一度のお茶会は、私にとって苦痛でしかなかった。お互い微笑み合いながらも会話はほぼない。黙って時間が過ぎるのを待つだけだ。私は毎回帰りの馬車で、こわばった表情筋をほぐすためのマッサージをしなくてはならなかった。
半面、王太子妃教育は面白かった。この国の政治、経済、歴史、各領地の特色、周辺国の言語や政治情勢、その他、淑女教育では教わらないあれこれを学ぶのはとても楽しかった。乗馬や護身術などの授業もあり、この時間があったからこそ、私は殿下とのつまらないお茶会にも我慢できていたのだ。
癒しもあった。殿下の弟王子と妹王女だ。この二人は可愛い。魔法を失敗してずぶ濡れになったところを乾かしてあげたら懐いてくれて、登城した際、一緒に遊んだり魔法を教えたりするようになった。元野生児の私が教える遊びは二人にはとても新鮮で楽しいらしいのだ。二人が木登りをしていたとか、王宮の池で魚を釣っていたとか、植木の間を匍匐前進していたとか色々な噂は聞いたけれど、口の堅い二人は、それを教えたのが私だということを内緒にしてくれている。もっとも、二人を護衛している騎士達に気付かれていないはずはないので、お咎めがないということは黙認されているのだと理解している。
そんな日々を過ごす中、私は年々猫を被るのが上手くなり、学園では猫にまみれて生活していた。ついたあだ名が「鉄壁の淑女」だの「氷の淑女」だの。「山猿」とはえらい違いである。
それでも学園生活は楽しかった。交友関係を広げられたし、貴族の社交というものを多少なりとも学ぶことが出来た。何よりありがたかったのは、殿下がめったに登校してこなかったことだ。学園でのカリキュラムをすべて学び終えていた殿下は公務の方に比重を置いていて、時間が空いた時だけ登校していたのだ。
学年末のパーティーなどには殿下のエスコートで出席したが、滅多に会えない殿下はすぐに生徒たちに囲まれてしまうので、別行動をしていても特に問題にはならなかった。
とはいえ。学園卒業後のことを考えると気が滅入った。まだ日取りなどは決まっていないが、私は学園卒業後何年かで殿下と結婚することになる。そうしたらもう、一生猫を脱げないのだ。竜に乗ることももちろんできず、王宮に閉じ込められて淑女の模範のように振舞わなければならない。
考えただけでうんざりだったが、ここまでくるともうどうしようもなかった。私の本来の性格を知っている両親は案じてくれていたが、余計な心配をかけたくなかった私は本心を吐露することは出来なかった。私の本音を聞いてくれたのは、年に一度許された領地への帰省の際、必ず会いに行っていた愛竜だけだった。
私はもうあきらめていた。あの嘘くさい笑顔の殿下の横で、同じぐらい嘘くらい笑顔をたたえて一生寄り添っていかなければならないのだと、あの日まで思っていたのだ。
そう、あの日まで。
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王子様編の令嬢側の事情が続きます。でもこれ、ダメだと思ったらすぐさまギブアップをお勧めします…