それは今から一か月と少し前のある日のことだった。とりたてて何かきっかけがあったわけではない。しかし私は突然思い出したのだ。自分の前世というものを。
その日は頭の中がぐちゃぐちゃで、私は高熱を出して寝込んでしまった。夢の中で繰り広げられる別世界の光景。ゴーレムに乗って戦う私。いえ、違う。これはゴーレムではない。ロボットだ。私はこのロボットを愛していた。今、竜を愛するかのように。そんな私の隣にはいつも違うロボットがいて。そしてそのロボットを駆っているあいつと私は……。
熱は三日で引いた。私の頭の中も三日できっちり整理された。
「転生」に関しては、孫と一緒に転生もののアニメを見ていたので、特に疑問もなく受け入れた。実際転生しちゃっているんだから受け入れざるを得なかったとも言える。そう、前世の私には孫がいて、家族に看取られて生涯を終えた…ということまで思い出していたのだ。
それでもあまり混乱しなかったのは、前世の自分と今世の自分が似たような性格をしていたからかもしれない。前世を思い出したからと言って今世の自分が消えたわけではなく、今世と前世をいっしょくたにしてぐるぐるかき混ぜてちょうどいい塩梅に混ぜ合わせた感じ。私はあくまでもかつて「山猿」と呼ばれ、今は「氷の淑女」と呼ばれている、王太子殿下の婚約者なのだ。
ただ、余計な記憶が増えたせいで、今までとは考え方に多少の違いが生まれている。例えば、現状を客観的にみられるようになったり、前世の価値観で物事を見るようになったり。
そんな風に殿下を見て、私は「ないわ」と思った。
前世を思い出して間もない頃、殿下との恒例のお茶会があった。前世孫のいる年齢だった私には、殿下はまったくの子どもに見えた。子供というより孫である。
その時点で、殿下との結婚は考えられなくなった。孫のような相手と結婚なんて出来ようか。
幸い王太子妃教育に王家の暗部についての知識は含まれていない。今ならギリギリ逃げられる。
王妃になって衆人環視の中で猫をかぶり続けるなんて絶対に無理だ。私は領地で竜の世話でもして生きていこう。別に一生独身でも構わない。
記憶がよみがえる前の私だったら、殿下との結婚がなくなっても、侯爵家のためになる相手との結婚を考えたかもしれないが、あいにく思い出してしまったのだ。あいつのことを。
大変なことも多かったが楽しい、私はその記憶に蓋をした。あいつもこの世界に生まれ変わっているなんて、そんな奇跡のようなことを願うほど、私は夢見がちではない。あいつのいない世界で生きていなかければならないのだ。
私は神様を恨んだ。前世の記憶なんてものが蘇らなければ、私はあいつを思い出したりせず、この世界でそれなりに平和に暮らしていけたかもしれないのに。
けれど私は今のこの人生を生きていかなければならない。いつかはあいつ以外の誰かと結婚してもいいと思える日が来るかもしれない。でもそれは今ではないし、相手は殿下ではないはずだ。王妃となって窮屈な毎日を生きていくなんて、前世があんな感じで今世もこんな感じの私にできるとは思えなかった。
殿下に対して「ないわ」と思ったお茶会は、年に一度の刺繍ハンカチのイベントの日だった。
私は一応例年通り、お茶会の日に渡すためのハンカチを少し前から刺繍し始めたのだが、驚いたことに刺繍がすごく下手になっていて、それはもう愕然とした。
それまでにも違和感はあった。記憶を取り戻してから、マナーがわからなくなったり、所作に荒さが目立ったり。前世の記憶が現世で習得したことを頭や体から追い出してしまったのかもしれない。
焦りを覚えながらも、私はたどたどしい手つきで刺繍を始めた。殿下の紋は使用人に刺してもらうわけにはいかない。この紋が指せるのは専門の係の者と殿下のお身内、そして婚約者である私だけなのだ。それ以外の者が指したら不敬ということになる。手を怪我したとかなんとか言いつくろえば良かったのに、そんなことも考えつかず、私は酷い出来のハンカチをそのまま贈ることにした。殿下のことだ、どうせ封も開けやしない。実際ハンカチの入った袋は開けられることなくお茶会は終わった。きっと殿下の目には触れるまい。
ちなみに。その後しばらく経って、侯爵令嬢としての知識も技術も全て取り戻せた。両親や弟、使用人たちも、私の変調は高熱が原因の一時的なものだろうとは言いつつ心配してくれていたので、完全に復調したことには何より私自身がほっとした。再度令嬢教育を受けなくてならないのかと若干気が遠くなりそうだったのだ。
転生のシステムはよく分からないが、おそらくこれが、前世と今世が融合するには必要な時間だったのだろう。
ともあれ。今の私になって初めての対面が終わった後、やっぱり殿下との結婚は考えられないと思った私は、こちらに瑕疵のない形で婚約を解消することが可能かどうかを、あらゆるつてを使って調べてみた。しかし残念ながら正規のルートでの婚約解消はほぼ不可能だとわかった。どちらかが死ぬか、婚姻が不可能なほどの病もしくは怪我を負うか、あるいは私の実家がとんでもない醜聞にまみれるか、そのぐらいのものだ。もちろんどれもご免である。
私は、まずは妥当に両親に相談してみた。元の私はそんなことすら両親に迷惑をかけるかもしれないと思って出来ずにいたのだ。
両親ともにやっと相談してくれたかといった表情で、出来る限りのことはしてみると言ってくれた。が、正直難しいだろういう言葉も返ってきた。
私は優秀すぎたのだそうだ。もっとバカだったなら、能力不足で婚約辞退もあり得たのだが、いかんせん、王太子妃教育が楽しかった私は実力を発揮しすぎたのだ。そのせいで両陛下からの評価も高く周囲からも期待されているのだという。
実際、お二人にはよくしていただいている自覚はある。いっそ嫌われていた方が良かったのだろうか。今更どうしようもないことだけれども。
そして両親は私に、一度きちんと殿下を向き合ってみることを勧めてきた。私が出来るだけ殿下を避けようとしていることを知っていたのだろう。
そのうえでどうしてもだめだと思ったら、父が陛下に直接頼み込んでみると言ってくれた。もし断られたら、多少あくどい手も使ってみるとまで。魔術塔の長にまで昇りつめた父だ。色々と手はあるのだとにやりと笑っていた。
けれど父にそこまでしてもらうわけにはいかないとも思った。父にあくどいことなんてさせたくない。
そうなれば残る手は一つだ。
やがて、前世と混じった私にとって、二回目の殿下とのお茶会の日がやってきた。
「お嬢様、今日はどのような髪形になさいますか?」
私付きの侍女が訊いてくる。声が多少弾んで聞こえるのは気のせいだろうか。
高熱を出して寝込んでいた時も崩れなかった私の縦ロールは、最近なんだか巻きが弱い。そのため、以前には不可能だったヘアアレンジが可能になり、これまで強固な縦ロールに阻まれ腕の見せ所のなかった侍女が張り切っているのだ。
「以前のままでお願いするわ」
「えー、やっとやわらかウェーブが可能になりましたのに」
残念そうに言いながらも、侍女は手早く髪を巻いてくれる。今日は髪形で殿下を驚かせている場合ではない。いや、殿下は私の髪形など気にもしていないかもしれないが。
両親には一度殿下とちゃんと向き合うことを勧められた。しかし私は逆の手段を取ろうと思っている。そう、殿下に直接婚約解消を打診するのだ。殿下だって私の事を好きではない。そんなことはわかっている。伊達に沈黙のお茶会を長年続けてきたわけではない。
お互い不本意な結婚生活を送るぐらいなら、合意の上で婚約解消に突き進んだ方がいい。私のことを好きでない殿下なら協力してくれるかもしれない。私はそう考えたのだ。
それならまずは素を見せようと、お茶会が始まるなり「山猿」モードに入ることにした。その前に、今度こそ美しく仕上がった刺繍のハンカチを渡したのは、私のプライドの問題だ。あんなにひどい刺繍しか出来ないのかと思われたくなかったので、刺繍の腕が戻ってから改めて作っておいたのだ。もっとも、あのひどい刺繍を殿下が目にしているかどうかはわからないのだが。
ともあれ、ハンカチを渡し終わってスッキリした私は、改めて「山猿」モードへ突入した。被っていた淑女の仮面を外せば、表情だって大きく変わる。これで更に私に対する殿下の評価は下がるだろう。今まで我慢していたスイーツ類は本当においしくて、呆れたような殿下の顔には気がついていたが、私は自分が満足するまで存分に舌鼓を打った。
そして、おもむろに切り出したのである。「婚約解消」を。
「わたくしとの婚約を解消していただけませんか?」
殿下の顔が固まった。殿下もまた鉄壁の笑顔を身に着けた王族だ。沈黙のお茶会でさえその表情が崩れることはなかった。その殿下がこんな顔をするなんて珍しい。いや、さっきの私のスイーツ爆食時にも呆れた顔をしていたから、今日の私の態度はよほどひどいのだろう。
しかしそんな殿下の表情に構っている場合ではない。私は婚約解消をしたい理由を滔々と述べ立てた。
本来の私はしとやかさのかけらもない女であること。そんな私が王妃の重圧に耐えられるとは思えないことなどなど。
それはもう、この何年間で殿下と交わした会話を全部足してもお釣りがくるほどの量だ。そうやって何とか殿下を丸め込もうとしたのだが、殿下は「わたしのことが嫌いなのか」などと見当違いなことを言ってくる。嫌いなのは自分の方だろうと思ったがそのセリフはぐっと飲みこんで、そして失敗した。
「だーかーらっ! わたしはそういうのが窮屈なんだってば!!」
しまった。淑女の鑑を強要されること嫌さに、つい前世の口調が出てしまった。令嬢失格、何なら王族に対して不敬でもある。
「気にする必要はない。頭を上げてくれ」
焦っていた私に対して、何故か殿下は表情を和らげた。王子様スマイルの奥に、好奇心が見え隠れしているような気がする。「殿下だって、わたくしのような女はお嫌いでしたよね?」
殿下から否定の言葉は返らない。つまりはそういうことなのだろう。
父に相談したことは黙っておく。私の独断ということにしておけば、何かあっても侯爵家が大きな罪に問われることはないだろう。貴族間での評判は下がるだろうが、そこはまぁ勘弁してもらいたい。
驚いたことに殿下からも私が優秀すぎたのだと言われてしまったが、優秀な教師からの学びと王家の書庫への入庫特権がなければ、私はとっくにメンタルを病んでいた。いっそメンタルを病んでいた方が良かったのかもしれないが、それもまた今更の話だ。
私の訴えを聞いた殿下は小さくため息をついて言った。
「わかった。なんとか婚約を解消する方向へ働きかけるよ」
「ありがとうございます!!」
やっぱり直接訴えて良かった。私の中で殿下の評価が爆上がりである。これまた今更爆上がってどうだという話だったが。
それからは、二人で婚約解消を成し遂げるための案を出し合うことになった。殿下と言えど個人の我儘で婚約が解消できるわけはない。
と。
「それなら、こういうものは持ってこない方がいいだろう?」
いきなり目の前にひらりと差し出されたのは、先ほど渡したハンカチだ。いつの間にか包装は外されている。
「……ですね。でも刺繍は淑女教育の中では好きな方で……。それに殿下の紋は心揺さぶる物だったので…」
そう、殿下の紋は好きだ。前世の記憶が戻る前も好きだったのは、これが前世の記憶に繋がるものだったからかもしれない。殿下の紋は剣に稲妻を象った意匠で、Zという文字に見えるのだ。
しかし確かに、婚約解消の話をしに来た日にこれはふさわしくないだろう。自分の刺繍の腕を見せつけるためだけに今日ここへこのハンカチを持ってきた私は若干ばつが悪くなり、話を変えることにした。
「そうだわ! 殿下は他に好きな方はいらっしゃらないのですか?」
「……………え?」
もしも殿下に好いた女性がいるのなら、そちらを婚約者にしてしまえばいいのだ。一瞬目が泳いだ殿下に、私はそういう存在がいるのだと確信した。
それならば話は早い。私は同年代のご令嬢方をほぼ掌握している。彼女たちを通じてその実家、兄弟姉妹へ働きかけることもたやすい。お相手の女性の評判を上げ、殿下の伴侶に相応しいという世論を作り上げることなど簡単だ。
が、しかし殿下は想い人の存在を否定した。私の勘は間違いないと言っているのだが、婚約者とはいえさほど親しい間柄ではない私に白状はしないだろう。いったいどこの誰なのか、疼く好奇心はひとまずなんとか抑え込んだ。
それに、殿下に想い人がいるから…という理由での婚約解消となると、殿下有責ということになり慰謝料云々が発生することになる。それは色々問題だ。
私は自分の案をあっさり却下とした。
「その方とは婚約解消後に愛を育んでいただくとして、今はお互いに非がない形での婚約解消を考えるべきですね」
「だから、そんな人はいない! それより、君はどうなんだ? 好きな人はいないのか?」
「………え……」
一瞬とある面影が脳裏をよぎり、私はうろえてしまった。殿下が妙に焦り出す。自分の婚約者であるために、好きな相手をあきらめたのだと思われたようだ。
婚約してから随分な年月が経つが、この時私は初めて殿下をいい人だなと思った。そして、だからこそここは誤解を解いておきたいとも思う。何より本当に、今この世界に想う相手などいないのだから。
「本当に昔のことで! 今となっては会えるとは思えない相手なので…!」
この世界に生まれるより昔のことなんだけど…と、心の中だけで呟く。
私の言葉に殿下は納得してくれたようだ。どうやら淡い初恋とかそういうことを想像してくれたらしい。妙に生温い視線を向けられているのには気がつかないふりをすることにした。
「お互い好きな相手が出来たから…は無理なようだな。何度も言うが、私も昔好きだった人がいるだけで、今はいないからな」
殿下は繰り返し言ってくる。わかっていますよ、殿下。私は殿下の恋を応援しています。
「次の手を考えましょう殿下。お互いがより良い婚約解消を実現するために!」
それからは、お互いに瑕疵のない形で婚約解消するためにはどうしたらいいのかを話し合った。
殿下が想う相手はいないと言い張るから、私の見込んだ優秀な令嬢を勧めてもみたが、側近が惚れているからと却下された。これは新情報である。殿下の側近は何人かいる。誰のことを言っているのか気になったが、今はそれより婚約解消だと思い直す。
そうして二人で色々な案を出し合った。
それは正直楽しいやり取りだった。私の知らなかった殿下の一面を見た思いだった。殿下は物事をよく考えているし、よく見てもいる。国内の政治情勢にも明るい。主だった貴族の性格や家庭環境まで把握しているのには正直驚いた。
けれど私も腐っても高位貴族の令嬢だ。それなりのネットワークを持っている。殿下の目の届いていない部分の情報を伝えると、少し驚いた顔をして褒めてくれた。殿下からは心のこもらないお世辞なら言われてきたが、心からの賞賛は初めてで、少しどやってしまう。
そうやって二人で話し合った結果、出たきたのはひどくありきたりな案だった。
今から二人で派手な喧嘩をし、決定的な亀裂が入ったと周囲の者に思わせる。その後、私は婚約を嫌がる余りに体調を崩す…ふりをして領地に行かせてもらう。久々に愛竜と過ごせるのかと思うと楽しみでならない。私にとってはある意味ご褒美だ。
その間、殿下は殿下で私との結婚への不安を訴え続ける。もちろん私も持ちうるネットワークをフル稼働させて社交界での情報を操作する。そうして周囲に、このまま私たちを結婚させていいのかという疑問を抱かせるのだ。周囲が不安視するようになったら、うちの父と陛下の出番だ。父はもちろん婚約解消に動いてくれるだろうし、陛下も受け入れてくれるだろうと殿下は言う。議会の方も、野心のある貴族なら空席になる王太子妃の椅子を狙って婚約解消に賛成してくれる確率が高い。
そして問題の宰相は、一人娘のご令嬢に働きかけてもらうことにしよう。私より一つ年下の彼女はとても優秀なうえに私の事を慕ってくれている。かねてより宰相が憧れていた遠い異国の猫を彼女に渡してあるので、どうとでも使ってくれるだろう。
ちなみにこの猫、三毛猫である。つい先日出入りの商人が連れてきていて、その姿形の余りの懐かしさについ引き取ってしまったのだ。最初は我が侯爵家で飼うつもりだったのだが、たまたま遊びに来た宰相家のご令嬢から、この猫が宰相の憧れている異国の猫であると聞かされて驚いたものだ。宰相家に引き取られたらこの猫の幸せは保証されている。少し寂しいが、この猫に会いたいときは宰相家へ遊びに行けばいいから特に問題はない。
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もうちょっと続きますー(汗)